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ある日梅吉は、漁を終え自室でくつろいでいた武男に、「ワラサ釣り用の一風変わったカッタクリ針をこしらえてみた。昨日そっと試してみたところ、これがまたよく釣れる。まだ仲間の漁師には誰にも見せていない。前もってお前に見てもらい、意見を聞いておきたい」と告げ、有無を言わさず自宅へと招いた。

擬餌針(ぎじばり)はそれ程珍しい代物ではなかった。武男は正直な感想を梅吉に伝えた。待っていたかのように酒席となった。梅吉は武男と酒を酌み交わしながらころ合いを見計らい「娘、道江を嫁に貰ってもらえないものか」と武男に熱心に勧めた。

二人の食卓に恥ずかしそうに酒や肴(さかな)を並べる色白のおとなしい娘に、武男はそっと視線を向けた。「きっとよく気の利く気立てのいい娘に違いない」と思った。病弱だった母を十二の秋に亡くし、以来、父一人子一人の家庭で女房代わりに父梅吉の面倒を見続けてきた道江は、事実、武男の想像どおりの娘であった。

武男と道江の婚礼の儀は、その日からちょうど二月後の大安の日、梅吉と初めて酒を酌(く)み交わしたこの家で行われた。武男は本庄家に養子として迎え入れられた。漁師仲間の誰もが本庄家と武男夫婦の前途を心から祝した。昭和十二年、武男二十四歳、道江十九歳の冬であった。

翌年、長男の勇が誕生した。決して体が丈夫な方ではない梅吉が、今まで体をだましだまし操っていた布袋丸は、武男が引き継ぐことによりまるで別の船と化した。武男の操る布袋丸は、水揚げ一番船として市場日報の筆頭にたびたびその名を連ねた。

本庄家の幸せはそれ程長くは続かなかった。激化の一途を歩む戦争の黒い影は、一歩一歩確実に、幸せに満ち溢(あふ)れた四人の漁師一家にも忍び寄っていた。昭和十七年五月、武男は佐世保鎮守府に海兵団の二等水兵として応召した。

昭和二十年八月、武男は終戦を呉鎮守府で迎えた。上等水兵本庄武男の帝国海軍軍人としての最後の職務は港内防火船要員であった。翌月の半ば、武男がリュックサック一つを背負い三日がかりで辿(たど)り着いた八景の漁村の様相は想像を絶するものであった。

父梅吉は武男応召の後、再び布袋丸を操り出し漁に出ていたが、無理がたたり、昨年の冬、道江に看取られながらひっそりと他界していた。武男にとっては命ともいえる布袋丸も、その年の春、横須賀の空襲の煽りを受けて被災し、無残な姿を野島の東浜に晒(さら)したままとなっていた。

武男が帰還するまでの間、本庄家の生計は道江の細腕にそのすべてかかっていた。道江は早朝から魚市場の雑役婦として馬車馬のように働き日銭を稼ぎ、幼い勇を育てていた。

武男の帰還をもって本庄家では一家の大黒柱の交代が行われた。武男の雇われ漁師としての生活が再び始まった。

元来、実力と気力の双方を兼ね備えた超一流の漁師であった。三年間にわたる応召によるギャップをものともせず、漁師武男は再びじわじわと頭角を現わした。

程なく武男の船は水揚げ一番船として市場日報の筆頭にたびたびその名を連ねるようになった。数年後には自身の船を持てるまでになっていた。

戦前の櫓帆船を改造し新たに焼玉エンジンを搭載した持ち船に、当然のことながら武男は布袋丸と命名した。

昭和二十六年九月某日、差し迫る台風を避けるかのように、観音崎沖の第二海堡周辺の海域に突然ブリの大群が現れた。この群れに勝負を挑んだ布袋丸の一本釣りによる一日の釣荷二百五本は、僚船をまったくといってよいほど寄せ付けなかった。地元では老漁師連が集まると今でも語り種(ぐさ)の一つになっている。

昭和二十八年、朝鮮半島では休戦協定が調印され三年にわたる内戦が終息を迎えた。特需に沸いた日本経済の低迷が懸念された。テレビ放送が開始され、街頭テレビの相撲やプロレス中継に全国民が沸いた。右派社会党議員の質問に対する吉田茂首相の「バカヤロー」発言がもとで、国会は解散総選挙となった。

その年の五月、ある麗(うら)らかな日曜日、平素世話になっている先輩漁師池内新三にどうしてもとせがまれ、武男は生まれて初めて遊漁客を取った。

 

 

 

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