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「それじゃ、根岸の米丸のご隠居さんがうってつけです。私は本牧の出身でして、子供のころ、米丸の爺さんには大昔の自慢話をよく聞かされたものです。

子供心には退屈だったのですが、何せ爺さん必ず駄菓子を用意してわれわれに食わせてくれたもんで。それが目当てで毎日のように通ったものです。

そういえば戦争とか地震がどうとかの話もしていたなぁ……。

何せ子供のころのことですから、どんな話かは皆目覚えていませんが」

松木屋が即答した。

「おお ! でかしたぞ松木屋 !それだ !

伸ちゃん、早速今から話を聞きに行こおう !」

船長が大鯛を仕留めた時のような大きな声をあげた。女将さんが何事かと奥から顔を覗(のぞ)かせすぐに引っ込んだ。

「それはだめですよ社長さん。爺さんは私が三崎水産高校に通っていた時分、とうに亡くなりました」

「ちぇ ! それを早く言えおう」

船長が舌打ちした。私も落胆した。

しばらくの間沈黙が続いた。その沈黙は突然話の輪に侵入してきた一人の老人によって破られた。

「何を昼間っから大きな声をあげているんだおう。……話は残らず全部聞いたおう。お前ら誰か忘れていやしねぃか」

奥の間から悠然と先代船長の本庄武男が現われたのだ。

「おう、親爺、聞いてのとおりだおう。でも親爺が八景に来たのは昭和の初めだおう。関東大震災は大正の話だおう !」

勇船長が言った。私も頷(うなず)いた。

「いいや俺のことじゃねぇ。池内の爺っ様を忘れたかおう ! 武男には以前話したはずだおう ! 俺が遊漁に足を突っ込むきっかけをこさえてくれた、野島の池内新三だおう。爺っ様なら昔のこと何でも知ってるはずだおう。

うめぃ具合に、今日は東風(こち)が強い。池内の爺っ様は用心深いから漁には出てないはずだ。きっと油屋の光吉のとこで渋茶でも啜(すす)りながら将棋でも指してるはずだおう」

「そうよ、その手があったおう !」

勇はそう叫ぶと女将さんに早速電話をいれさせた。武男の予想どおり、新三は油屋で暇をつぶしていた。私は近くの酒屋へと走っていた。

 

遊漁の生みの親

 

布袋丸船長、本庄勇の父親、本庄武男は遊漁業の生みの親として知る人ぞ知る人物である。

大正二年、武男は千葉九十九里の漁師、菊地源次郎の三男として生まれた。昭和七年、武男は当時十九歳、漁師の三男坊の気楽さゆえ、将来の独立を夢見て単身神奈川の金沢八景に移り住んだ。

父親と親交のあった地元の漁師の紹介で武男が小さな行李(こうり)一つで転がり込んだその先は、若い雇われ漁師連が寝泊まりする野島の片隅に建つ簡易宿舎の四畳半一間であった。宿舎には武男と同じような境遇の若者達が関東近辺から集まり、共同生活をおくっていた。

武男は親方から日銭で借りた櫓帆船を自分の手足のように自在に操り、真鯛や青物の一本釣り漁師として、海況の許す限り湾内に出漁した。九十九里の荒海で父や兄達に鍛えられた腕前と、持って生まれた漁師としての才能は伊達(だて)ではなかった。八景の熟練の漁師連が武男には一目を置くようになるまでに、それほどの時間を必要としなかった。

武男は親方に請われ、八景の平潟湾内にあった塩田や小柴の海苔棚での作業を手伝うこともあった。武男はきつい作業や汚れ作業であっても他の若い者の先頭に立って働いた。持って生まれた恵まれた体力と気力、そして若さゆえに少しも辛いと感じたことはなかった。

やがて武男の真面目な腕の良い漁師としての評判が、小柴の老漁師、本庄梅吉の耳にも入った。

 

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金沢八景、野島の船宿と船着場(出船後で遊漁船の姿は少ない)

 

 

 

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