東京湾謎の大量重油流出事故
あの日“カタストロフィ”は本当に起きたのか?(その三)
(社)日本海難防止協会
主任研究員 大貫伸(おおぬきしん)
カタストロフィの生き証人を探せ !
数日後の午後、私は久里浜の港湾技術研究所を別の仕事で訪れた帰り、金沢八景の本庄家に立ち寄った。
「こんちは、お邪魔します !」
私は勝手知ったる待合所の方にまわり、入口のガラス戸をがらりと開けた。
「あれっ ! びっくりしたねぇ。誰かと思ったら伸ちゃんじゃないのさぁ。どうしたの今時分 ?
それにしても、背広姿にネクタイなんか締めちゃってさぁ。
わかった ! 会社の帰りだね。そいでもって夕方出船のメバル船に乗るつもりだねぇ。あんたも好きだねぇ」
相も変わらず陽気な女将さんが矢継ぎ早にまくしたてた。
「いやいや違うんです。今日は釣りではないんです。ちょっと伺いたいことがありまして。それで寄ったんです」
「あっ、そうなの。ちょっと待ってて。今日は息子が乗っていったんで、船長奥にいるから。あんた !……珍しいお客さんだよ」
伸びをしながら勇船長が現れた。最近、平日の出船は一人息子の隆に任せ、勇船長が在宅していることなど私は百も承知だった。
「なんだおう ! 珍しい客っていうからおう、誰かと思ったらお前さんか。何を昼間っから『ちんちくりん』な格好しているんだおう。
そうだ、遅い昼飯でも出前させようと思っていたんだおう。一緒に喰うか ? うめいぞここの餃子はおう !」
私はつい先程、駅前のラーメン屋で昼食を済ませたばかりであった。船長の申し入れは嬉しかったが丁重に辞退した。
女将さんが暖かいコーヒーを運んできた。私は東京湾のカタストロフィに関する今までの経緯について順を追って説明した。
話が終わるころには船長の昼食も終わっていた。ずっと興味深そうに相槌を打っていた船長が堰(せき)を切ったように口を開いた。
「早い話が伸ちゃん、関東大震災当時から現役の漁師だった爺さんをこの俺に見つけてほしいてんだなぁ。
わかったおう ! 大船に乗った気持ちでまかしときなおう !」
船長はぶ厚い胸板を右の拳(こぶし)で一つ「ぽん」と叩き、自身ありげにそう答えた。突然、入口のガラス戸ががらりと開いた。出入りの餌屋、松木屋の三代目がやって来たのだ。
「毎度 !『えさ松』が伺いました。社長さん、こんにちは !
あっ、お客さんでしたか。気が付きませんでどうも済みません」
「いいよ、いいよこの人はおう。それより戸を閉めて早く入ってきなおう。
ところで、正坊はこの辺りじゃけっこう顔が広いよなぁ ?」
「えーお蔭様で。遊漁さんからも職漁さんからもご贔屓(ひいき)いただいていております」
「じゃ聞くがおう ! この辺りで、関東大震災の時分から漁師やってた爺様を知らんかおう !」
「関東大震災 ? 一体いつの話ですか ?」
松木屋の三代目は三十路をやっと超えたか超えないかといった年ごろであろうか。無論、関東大震災が何時(いつ)起きたかを知らなくても無理はない。船長に代わり私が横から口を挿んだ。
「関東大震災は大正十二年の九月ですから、今から七十六年前に起きました。ですからそうですねぇ、……当時最低でも十歳ぐらい。尋常小学校を出たばかりで漁師さんの見習いをしていた方などでもいいのですが」