小型漁船乗組員の迅速な救助を願って
(社)日本海難防止協会
企画部長 菅野瑞夫(かんのみずお)
はじめに
今年の夏、七月二十六日夕方のテレビニュースで、二十四日早朝の遭難連絡以後行方不明になって安否が気遣われていた「いか釣り漁船第73長生丸の乗組員三名全員無事救助」との報道があり、一七トンの漁船が転覆したような時化のなか、約二昼夜半もの間、つかまっていた船底からよくも流されずに生還されたものと喜びました。
しかし、このような小型船にはGMDSSの目玉機器であるEPIRBの搭載義務はないはずで、あるいはこの漁船がEPIRBを搭載していれば早期発見につながり、その後の機関長の死を防げたのではないか(残念なことに、機関長は生還もむなしく八月三日に収容先の病院で死亡)、三人がどう生き抜いたのか、参考となるものはないのか調べてみることにしました。
第73長生丸転覆の概要
第73長生丸(一七総トン)は、武蔵堆でいか約四トンを漁獲し、七月二十四日〇一五〇ごろ小樽港に向かった。その後海上模様が次第に悪化し、南南西の風約一五メートル、波高三〜四メートルの時化となり、減速航行したことから同港での競りに間に合わなくなり、〇四〇〇ごろ入港地を留萌に変更し同港向け東南東方向に速力約一〇ノットで航行していたところ、〇五三〇ごろになって海上模様がさらに悪化し、また波浪を右舷正横から受ける状態となったことから、針路を雄冬岬に向け南東方向速力を約七ノットに減じて航行していたところ、同日〇五四五ごろ、北緯四四度一〇分、東経一四〇度五〇分付近(推測)において、右舷からの大波によりついに左舷に横転し徐々に転覆状態となった。
漂流・救助の概要
[船長の話]
船長は、船橋内に海水が入ってきた時に、近くにいたと思われる僚船第78長生丸に対し一方的に無線で状況と位置を知らせ、すぐに横倒しとなった船の右舷船外に出た。
しばらく横転の状態でいたので、右舷舷側上で船内から脱出していた機関長に救命浮環を持たせ、船長と甲板員は防舷物のロープで縛り、波で流されないようにした。徐々に船底が上になり転覆状態になっていくのに合わせて船底に上がった。
夜になると海上模様が穏やかになったが、波しぶきが顔に当たるので眠ることはなかった。
船長は、捜索が行われていることを信じていたので「必ず助かる」と乗組員を励ました。
二日目ごろから、三人ともかなり体力が落ちてきた。特に機関長の疲労が著しく、幻覚をみたのか「船が来た」とか言い出すようになった。
船長と甲板員は、幻覚かもしれない飛行機の音が聞こえたり、オレンジ色の船をみたりした。
二日目の夜、天売、焼尻島の灯台の光が南側に見えた。
三日目になると、体力がかなり落ちてきたのか、現実と幻覚の区別がつかなくなってきたが、近づいてくる船があるなと思ったらその船に助けられた。
石狩港から天塩港向け航行中の砂利運搬船第3辰丸で、七月二十六日一五五〇ごろ、北緯四四度三三分、東経一四一度三三分付近で、三人を救助、一八一五ごろ羽幌港に入港し、羽幌病院に入院させた。船長と甲板員は風呂に入り食事もとり、少し元気を取り戻したが、機関長は風呂に入れず食事もとらなかったので、毛布で包んで身体をさすったところ少し元気になった。