この十七、八里の島の内に、二町四方(一四、四〇〇坪)ほどの平地が一個所、一町四方(三、六〇〇坪)ほどの平地も四、五個所ございます。この島には流れ川が一個所ありまして、川幅二、三間(四〜五メートル)ほどに見受けました。小石の多い浅い川でございます。山の高さは伊豆大島の山より、遙に高く見えました。
残りの十四、五里の三つの島にも、それぞれ一町四方ほどの平地が一個所づつあったように覚えております。四、五反(一、四四〇〜一、八○○坪)ほどの平地もそれぞれ二、三個所づつあったような気がします。これらの島々の山の高さは、伊豆大島の山と同じぐらいに見受けました。また、少しですが水の流れもあります。
周囲二、三里の十四、五の小島どもには、平地はございません。船つながりするところも見当たりませんでした。
水の流れは少しづつあります。山の高さは、いずれも伊豆大島の三分の一ほどづつに見受けました。
以上大小の島々のいずれにも大木が生い茂っております。あまり心に留めておりませんでしたので、詳しい様子は覚えていません。その上、また見落とした島があるかも知れません。まず、見覚えておりますのは、右のとおりであると、水主の者が申しております。以上
八丈実記
船舶第七・漂流・和国
寛文十一辛亥年(一六七一年)(口書では寛文十年)勢州藤代長兵衛船、乗組八人(口書では七人)で無人島へ漂着す。一人彼の島において相果てる。七人(口書では六人)の水手働きにより、破船となった元船の板木をもって箱のように船を打ち建て、同年五月(口書では四月)に無人島を出帆し、日数八日目に(八丈島)中之郷藍ケ江へ漂着す。鳥卵を夥しく持参。
―奥山日記―