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絵で見る日本船史 259

春日丸(II)(かすがまる)

日本郵船では昭和六十年十月に創業百周年を迎え、その一世紀に亘(ワタ)る歴史の中で社船の船名が三代に渡って襲名した船が二五隻あり、その中でも春日丸の三隻は最も注目に価する船であろう。

春日丸一世は明治二十九年十月に開設された濠州航路の、強化船として同三十年十二月に、英国のグラスゴー、ネピア造船所で建造された三姉妹の一番船で、外国船社に対抗し特に船客設備に重点を置き、速力は同航路就航船中最高の一六・九二節を記録、日露戦争に当っては開戦前の明治三十七年二月仮装巡洋艦に改装され、日本海々戦にも参加、戦後の三十八年十二月まで七百余日に渡る軍務に服して活躍した船である。

 

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春日丸二世は昭和十二年四月に実施の優秀船建造助成法の適用を受けて日本郵船が、欧州航路用に三菱長崎造船所で建造した三隻の一万七千屯級速力二一節の新田(ニッタ)丸、八幡(ヤワタ)丸に続く三番船で、昭和十五年一月六日に起工、同年九月十九日に進水の時春日丸と命名され、三姉妹の頭文字が日本郵船のNYKとして知られている。

翌十六年五月末の竣工を期して艤装工事が行われたが、間もなく特設空母に改造と決まり、十一月から工事に着手、船体工事の大半と約三割の艤装工事を長崎造船所で施工し、翌十六年五月一日付で海軍に徴傭され、佐世保に回航し海軍工廠で残る工事を完了した。

同年九月五日に完成し商船から転用改造の特設航空母艦の一番艦となり、九月十三日に連合艦隊付として、南洋群島の基地へ航空機輸送に就航、太平洋戦争開戦時には空母春日丸として正式空母龍驤(リュウジョウ)と共に、第四航空船隊を編成して活躍、翌十七年八月二十一日空母大鷹(タイヨウ)と改名し軍籍に編入された。

改造空母一番艦として華々しく就役した大鷹は、主な海戦に参加する機会なくその後二年間は主として前進基地へ航空機と部隊輸送に当たり、十九年八月に海上護衛隊に編入され護衛空母となった。

昭和十九年八月十日九州伊万里(イマリ)湾で編成された『ヒ七一船団』は比島救援部隊輸送の帝亜(テイア)丸、能登(ノト)丸など九隻と、旭東(キョクトウ)丸等高速特攻油槽船六隻の計一五隻で、護衛艦は旗艦空母大鷹、駆逐艦二隻、海防艦五隻計八隻で、十日早朝五時に出港、十五日には中継補給港の馬公(バコウ)に無事入港したのである。

二日後の十七日朝八時にマニラ向け出撃し、港外で高雄海上護衛隊からの駆逐艦、海防艦など五隻と合流し、護衛艦計一三隻に強化され旗艦大鷹から昼間は対潜哨戒機を飛ばし、万全の護衛体勢で満を持して魔のバシー海峽と、悪名高き危険水域に堂々と突入した。

翌十八日未明バシー海峽入口で突然油槽船永洋丸が被雷し、幸い沈没を免(マヌガ)れて駆逐艦夕凪(ユウナギ)の護衛で分離し高雄に回航、その後は各船共必死の警戒で海峽を乗り切り、同日午後ルソン島北端に到達し、旗艦の指示で船団隊形を沿岸航行の二縦列として、護衛艦群はその周圍を監視し粛(シュク)々と南下した。

船団がラオアグ通過頃の、同日二十二時三十分、新兵器レーダーを装備した米潜三隻による狼群戦法(ウォルフパック)の罠(ワナ)にはまり、先ず空母大鷹が狙(ネラ)われ右舷後部のガソリン・タンクに魚雷が命中し、続いて二本目が重油タンクを直撃、大爆発のすえ同年八月十八日二十二時四十八分反撃の機会もないまま沈没し、敢えない最後を遂げたのである。

この時比島決戦の増援部隊輸送船など四隻が沈没し、二隻が中破残りの八隻が辛(カロ)うじて八月二十二日にマニラに入港出来た。

因(チナミ)に春日丸三世は昭和五十一年八月二十七日、日本郵船の基幹線欧州航路の花形コンテナ船として三菱神戸造船所で完成、コンテナ二、四五〇個積で当時日本郵船最大の、コンテナ船・フラッグシップとしてよみがえったのである。

松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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