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その開発課の当時の名簿に知っている名前を見つけた。「何と!」当協会の現役の常務理事、元海上保安庁警備救難部長のT氏の名前である。「灯台下暗し」とは正にこのことであった。早速、私は役員室を訪ねた。

「T常務……。昭和四十二年当時、海上保安庁から運輸省大臣官房に出向なさっていましたね」「どうしたのかね、突然に。うん、確かに。私は当時二十代、係員としてH課長にお仕えしていたよ。前任は確か、海上災害防止センターの0理事長のはずだ。IMO(国際海事機関)がIMCOと称されていた古い時分の話だ。H課長にはずいぶんとお世話頂いた。懐かしいなぁ」

私は例の報告書を常務の目の前に置き、今までの経緯を一気に捲(まく)し立てた。そして期待感を込めそっと常務の眼を覗(のぞ)き込んだ。

「うーん……。三十年前の話か……。残念だけどまったく記憶にないのだよ」

必ず突き当たる壁、三十年前の話……。

いや、三十年前の報告書に記載された僅か数行を覚えているほうがおかしな話なのかもしれない。

次の日から私の図書館通いが始まった。関東大震災に関する資料・文献を読み漁った。無論、神奈川県、横須賀市、横浜市などの震災史にも眼を通した。だが東京湾海洋汚染カタストロフィの話は、どの文献にも一言も触れられてなかった。

「おか」は阿鼻叫喚の巷と化していた。海洋汚染事故どころの騒ぎではなかったに違いない。

三日目の朝、私はふと閃(ひらめ)いた。

「そうだ、この話はそもそも海軍の燃料タンクが崩壊した話なのだ。きっと軍の資料としてどこかに残されているに違いない」

なぜ今までこんな簡単なことに気付かなかったのだろうか。私は居ても立ってもいられず日比谷の図書館を後にした。降りしきるみぞれの中、私はコートの襟を立て、慌てて「流し」のタクシーに飛び乗っていた。

公文書館を訪れたのは生まれて始めてであった。郷土史の研究家であろうか、隣の席では眼鏡の老人が江戸時代の古文書を捲(めく)りながら、しきりにメモをとっている。後ろのテーブルでは、弁護士風の中年紳士二人が何やらしきりに小声で話しをしている。口を動かしつつも、明治時代の土地登記簿の山を目の前に、コピーをとるための付箋を挿(はさ)む作業に余念がない。土地争議に関する案件でも抱えているのであろうか。

私は当時の軍関係の膨大な公文書一覧から探すこと二時間、ついにそれを見つけ出したのであった。

その題名は「大正十二年九月一日震災記録海軍省軍務局」である。これこそ「そのものずばり」の幻の資料に違いない。はやる気持ちを抑え、私は所定の用紙に閲覧を希望する資料名を記入した。係員にそれを手渡した。時計を気にしながら待つこと約二十分、やがて私の名前が呼ばれた。

 

帝国海軍極秘資料

 

こうして今、その資料は私の手元に届いたのである。上質和紙を使った活版印刷の一冊の報告書であった。丁寧に紐綴(ひもと)じされているが、表紙の隅に浮き出た黄ばみが歴史の経過を物語っている。何よりも目を引くのは、表紙に鮮やかに押された「秘」の朱印である。

この朱色の一文字が何とも言えぬ迫力である。世が世であるならば、決して一民間人である私などの目に触れることもなかったであろう。私は早速表紙を捲り、眼前に現れた目次を急いで目で追った。

「第一章 総説」「第二章 震災救護目録」に引き続く次章に注目した。「第三章 震災被害摘要」とある。「第一節東京方面」に続き、「第二節横須賀方面」とある。しかも第三節は「艦艇建造依託中ノ部外造船所」とあって第三章は締めくくられている。

察したとおりである。関東大震災により帝国海軍が受けた被害状況が、ここ第三章で詳細に記述されていたのである。いよいよ結末が見えてきた。心なしか胸の高鳴りを感じずにはいられない。私はもどかしい手つきで頁を捲った。

その刹那「えー!そんな馬鹿な!」私は思わず驚きの声を発した。郷土史家の老人が横目でじろりと私の方を睨んだ。弁護士風の男達が振り向いた。私の立場であったならば、彼らとて声をあげずにはいられなかったであろう。

 

 

 

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