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当時、南南西または南西の風三〇メートル、船の動揺左右約一五度ぐらい。しかし波浪は次第に増大し車両甲板、後部開口部から海水が侵入し、その量は次第に増え、機関室の上やエンジンルーム、車両甲板の前部までに達しました。

その間、無線通信で各船と国鉄海岸局(JRG)と連絡を取っていましたが、洞爺丸(JBEA)との交信記録の無線業務日誌の抜粋によると次のとおりです。

 

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当時の青函連絡船の無線室(写真は摩周丸の無線室)

 

洞爺丸との交信記録

 

20:27 JRG 貴船の模様知らせ

21:25 JBEA エンジン、ダイナモ止まりつつあり、突風五五メートル

21:26 JRG こちら非常配置でワッチ中、貴船がんばれ

21:37 JBEA 左舷発電機故障、左舷エンジン不良

22:O1 JBEA 辛うじて船位を保ちつつあり、詳細あと

22:12 JBEA 両エンジン不良のため漂流中

22:27 JBEA 防波堤青灯より二六七度、八ケーブル、風速一八メートル、突風二八メートル、波八

22:28 JGR 最後までがんばって下さい

22:39 JBEA SOS洞爺丸函館外青灯より二六七度、八ケーブルの地点に座礁せり

22:39 JQLY  SOS日高丸函館防波堤灯台より九ケーブルの位置にて遭難せり

以降、いくら呼出しても応答はなかったのです。SOSを発信することが出来ないまま沈没した第十一青函丸、北見丸、十勝丸、その急迫さを示して余りあります。

 

生存者の証言

 

この海難で十勝丸の通信士一人が生存、その証言によりますと、「船体の動揺が激しく、三人の通信士のうち打電する通信士を他の二人が腰を抱き、肩を抱えて行った。通信長が船長からSOSの命令を受けて、無線室に戻ったとき、さらに船体の傾斜が激しくなり、通信長がSOSと呼んだと同時に横転しだし、三人とも海に投げ出された。生存した通信士は三時間、荒海に漂流し、国鉄専用の補助汽船に救助され、濡れねずみのまま国鉄海岸局に行き、SOSを打てなかった事情を報告した」とのことでした。

また、洞爺丸の生存者の証言によりますと「傾斜した無線室で通信長が片足を通信卓にかけ、海老のようになってSOSを叩いている姿を見たのが最後だった」とのことでした。なお、洞爺丸の生存者は一五九人でした。

さらに、石狩丸船長の話によると、「目の前に黒いものが矢のように飛んできて、そのたびに、思わず頭を下げた。ブリッジの一番前の窓ガラスに顔を付けて前をみていたが、それが何だか分からないくらいの大波であった」とのことでした。

 

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当時の国鉄の函館海岸局

 

 

 

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