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脳裏に残る"洞爺丸"の最期

元国鉄函館電務区棧橋無線分室

朝田幸夫(あさだゆきお)

 

今年五月十日、青函連絡船「洞爺丸」遭難の第一報を打電した坂本幸四郎さん(当時連絡船「石狩丸」首席通信士)が七十四歳の生涯を閉じた。

今から四十五年前、実に千四百数十人もの犠牲者を出し、あのタイタニックの遭難にも匹敵するわが国海難史上最悪の集団海難をわれわれは語り継がなければなるまい。

当時、陸上側の海岸局で悲劇のSOSに関与した筆者の記憶によると……。

 

はじめに

 

午前八時四分函館発、快速海峡二号は、静かに青森へ向け発車しました。間もなく「ただ今より海底トンネルに入ります」と車掌のアナウンス。――四十五年前、この海での大惨事も時の流れとともに忘れられつつある昨今。思えば、私が当時の国鉄で無線通信業務に従事していたころの出来事でした。

昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、洞爺丸台風による海難事故当日、私は国鉄函館海岸局久根別送信所の勤務でした。

まさか、こんな大惨事になろうとは、誰しも予測していませんでした。

 

当時の状況

二十時ごろから最大瞬間風速五〇メートルを越え、函館全市が停電となり、送信所の電源も断となりました。当然電波の発射も不能となりました。早速非常時に備えた発電機に切替えての作業となりましたが、長時間の起動で発電機のエンジンが加熱し、当直員全員で水で冷しながらの運転となり、円滑な通信運用が出来るようにと祈る思いの裏方作業でした。

 

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事故当時の筆者

 

函館港を襲った台風一五号は、洞爺丸、第十一青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の五隻の青函連絡船を遭難沈没させ、一夜のうちに乗客・乗組員合わせて一、四四七人の尊い人命を奪いました。

この日函館地方は、早朝から小雨模様で十時ごろから東の風が強くなり、ラジオ放送で台風の情報を伝えていました。十七時過ぎ風速が急に衰え、雨も止み雲の合間から日がさし始め、西の空は夕焼けとなりましたが、これが台風の目だったようです。十八時ごろからにわかに暗雲が垂れ込め、風が南に変わって次第に強くなり、平均風速二五メートルの暴風雨となって二十時から二十一時ごろには瞬間風速五〇メートルを越えました。

 

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停電で活躍したダイナモエンジン

 

洞爺丸の動静

 

洞爺丸は、十八時三十分出港予定のところ、少し遅れて十八時三十九分青森に向け出港しました。乗客一、一九八人、乗組員一一一人、外に鉄道弘済会、鉄道郵便関係者二二人の総計一、三三一人、貨車一一両。ところが、南南西の強風に出合い十九時、港内西防波堤灯台の付近で投錨し、乗客には荒天のため続航するのは危険なので仮泊するとの船内放送が流されました。

 

 

 

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