その後昭和十五年十一月と、翌十六年二月に夫々一隻の姉妹船が播磨造船所で建造され、最新型の高速貨物船として関釜連絡船航路の貨物輸送用に登場したのである。
当時昭和六年九月の満州事変、同十二年七月の日中戦争勃発などで、内地と大陸間の物資輸送量が往復航共繁忙を極め、従来の客貨船や車両渡船だけでは貨物輸送に対応しきれなかった為である。
関釜連絡船の下関釜山間距離は青函航路の約二倍、我が国の最大鉄道連絡船航路で、開設されたのは日露戦争中、明治三十八年一月釜山と京城間鉄道の開通を機に、内地と鉄道で一貫輸送のため関釜連絡船航路が開始され、第一船は客船の初代壹岐丸、第二船は姉妹船の初代対馬丸が就航した。
この姉妹船はその後青函航路と稚泊(チハク)航路に移り二十六年間の長期就役後、昭和六年に引退してその九年後に壹岐丸、対馬丸の二世が誕生し関釜連絡航路に配属され今度は純貨物船として就航した。
壹岐丸二世は昭和十五年十一月三十日相生の播磨造船所で建造の鋼製貨物船で総屯数三、五一九屯、載貨重量四、六一七屯、主機タービン一機で出力四、〇一八馬力、速力最高一七・二節、全長一〇三・八米、幅一四・五、深八・八、船客定員は零(ゼロ)となっているが、乗組定員七三名の外、員外十二名の設備があり、常時国鉄関係者などの便乗に供されたといわれている。
貨物船の生命たる荷役装置に関しては、四船艙に前後檣と一対の揚貨柱があり、各艙には揚貨装置五組が完備、荷役能率の向上のため中甲板両舷側には、特設載貨口(サイドポート)が設けられて居り、また二番船艙の艙口は一四・二米の超大開口で長尺物に対応する設備であった。
載貨量四千六百屯の揚積荷役は昼間一交替(ワンシフト)で終了、夜間は関門・釜山間を八時間の定時運航を持続し所期の成果を上げ、続く姉妹船対馬丸二世も翌十六年四月十二日に完成し就航、好成績をあげた。
太平洋戦争開戦後も二隻は関釜連絡船の重要使命に従事し昼夜の別なく活躍していたが、同二十年五月末には米空軍投下の磁気機雷のため関門港が封鎖となり、国鉄と海運総監部の協議で、壹岐丸と対馬丸の姉妹船は二隻共、裏日本の新潟と北鮮羅津間に配船された。
終戦二日前の昭和二十年八月十三日羅津で揚荷を終った対馬丸が、同日満州から越境侵入のソ連軍の南下の目前に自沈して果てた。
その頃青函航路では七月十四日十五日の米軍機動部隊による東北・北海道大空襲で、青森と函館港の国鉄連絡船隊が艦載機延八百余の波状攻撃で全滅状態となった。
急遽その補充のため、壹岐丸が八月二十四日青函航路に転出の命を受け、貨物艙内には特設の船客収容施設を装備し、数少ない残存船の一隻として、辛(カロ)うじて生き残った戦標W型連絡船第八青函丸と共に昼夜の別なく活躍した。
昭和二十三年六月広島鉄道局に転属となり、同二十五年に船齢丁度十歳の時、マ司令部の命令により僚船興安丸等と共に、朝鮮郵船(後に東京郵船、昭和郵船更に東洋郵船と度々改称)に移譲されたが占領軍使用の名目で、韓国に引渡される事にはならなかった。
松井 邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)