バンドはヒンズー語の堤防という意味で上海の建設に従事したインド人がバンドと呼んでいた工事現場が地名となったものです。
当時の上海は日本人には危険なテロの街でした。
その日は共同租界は危険だからと、比較的に安全といわれたフランス租界にある上海競馬場の前の国際飯店でレースを眺めながら上海料理のもてなしを受けました。
このようなことで租界の中心街の南京路もタクシーで素通りしただけでゆっくりと町中を見ることはできませんでしたが、通貨は重慶政府の法幤が日本が作った南京政府の儲備券(ちょびけん)よりも幅広く流通していることと、初めて口にする豪華な上海料理を知ったことでした。
そのころの日本の一般家庭の食事は貧しいものでしたので、世の中でこんな美味しいものがあったのかと感激したものでした。
その後上海には何回か行きましたが、ゆっくりと上海を見るようになったのは、一九九三年に上海フェリーの新造船の蘇州号が横浜〜上海間に就航し、ビザも船内で取れ、手軽に行けそうなのでこれに乗船してからでした。
乗船券の最も安い部屋は四〜五〇人が入れる二万円のカーペットルームで、そこは山のような手荷物を持った里帰りや出稼ぎの中国の人たちでにぎわっていました。その中に大きなザックを背負った一人旅をする何人かの日本の若者がいて、面白い旅行談義を聞くのも楽しみの一つで、昔の上海航路の船客とはすっかり様変わりした風景でした。
現在の上海は中国の経済的首都といわれて新しい高層ビルがあちらこちらと建ち町並みも少しずつ変ぼうしているようですが、黄浦江の風景もバンドや町並みも、また強烈な上海の臭いも昔を思い出させる懐かしいものがありました。
その後、毎年のように蘇州号で感動も新たに黄浦江を溯航し、和平飯店ではオールジャズバンドや南京路へ、新錦江飯店では上海随一のオシャレロード准海路と何か引かれる上海のクルーズを楽しんでいます。