投稿 上海行路
森本賢治(もりもとけんじ)
上海は昔「魔都上海」と呼ばれていました。私が生まれて初めて見た外国がその上海で、日中戦争さなかの一九四〇年の夏でした。
魔都といわれるには、阿片、売春くつ、賭博などの悪の裏社会が大きくはびこっていたのでしょうが、どちらかといえば上海の市街戦で孤軍奮闘をしていた海軍陸戦隊のいる上海という印象のほうが強くありました。
揚子江に入る前日ごろから、全長六千キロメートル余の上流から吐き出す揚子江の土砂で海面が茶褐色に濁り始め、揚子江が桁外れの大河であることをまず知らされました。
揚子江から隅田川ほどの蛇行する赤い泥水の黄浦江(ほほこう)に入ると、川の中ほどには外国の軍艦が砲身を誇示して錨を降ろし、今にも沈むのではと思うほど水面すれすれまでに荷を積んだ荷船を何隻も引いた小蒸気船が、汽笛を鳴らしながら大型船の間を縫うように上り下りして、そのなかをジャンクがゆっくりと流れに乗って下っていく、三〇キロメートルの黄浦江遡航は日本ではみられない感動的な景観でした。
船の前方に四角い箱を積んだようなブロードウエイマンションが見えると、虹口(ほんきゅう)側に日本海戦に活躍した旧式の巡洋艦「出雲」が係留していました。
上陸し租界(そかい)をみて上海が中国の中にある外国の都市であることがよく分かりました。日本人が多く住んでいる虹口に上陸すると、街中はニンニクや食料油に黄浦江沿いの工場から吐き出す石炭の煤煙が入り交じった強烈な上海の臭いが襲ってきました。
ガーデンブリッジの虹口側は海軍陸戦隊の兵士が、橋を渡ってバンドに入ると赤いターバンを巻いたシーク人の警官が不審者の検問をしており、バンドにはキャセイホテル、香港上海銀行などが建ち並ぶ景観は中国でない外国の都市そのものでした。