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静岡県芝川町釜口峡

 

明治三十二年、東京、静岡間の東海道線、明治三十六年、八王子甲府間の中央線が開通して物流構造が変革し、静岡・山梨両県間の物資の多くが汽車で多量に輸送されるようになって、富士川舟運は大打撃を受ける。

引き続いて、明治四十四年五月中央線が甲府・名古屋間の全線開通をみると、これによって舟数は百五十艘に激減し、さらに昭和三年三月、富士・甲府間の富士川沿いを走る身延線が全通したことによって、富士川舟運は交易の要路としての意義を失い、昭和三年終焉(シュウエン)する。

一方、東海道往還を支えた「ヨコ流し」の富士川定渡船も、大正十三年八月、富士川橋が架設されたことによって、慶長七年来の長い歴史を閉じている。

 

富士川舟運水難史

 

富士川沿いを歩いてみると供養塔や安全祈願碑がやたらと多い。また、流域の所々に盆行事として同種同様の「投げ松明」「百八たい」「川勧請」といった川施餓鬼供養が営まれ、その伝承を尋ね歩くうちに富士川舟運の発達史があり、数多くの水難死があることを識った。

しかもその盆行事が伝承されている地区は、富士川舟運の悪場(アクバ)とされていた川筋の当たり、数多くの遭難が集中的に起きていることが判った。甲斐国志は、船頭達が恐れた悪場の一つ天神ケ滝を「あやまちて舟を乗り当っれば、舟は粉々となり、人舟ともに岩洞に吸込まれ、助命するものなし」と書いている。

 

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現在の富士川河口付近

 

悪場とされる所の改修は、再々行われているのだが、「文化三年(一八〇六)六月、鰍沢の舟が十島の通称「あずき石」に激突して大破、身延参りの乗客もろともに下流に押し流され、乗客の内十五、六人が溺死」また、「日露戦争の時、壯丁として入営する三十人を乗せた舟が、折しも増水のため留め川(筆者注、川留めと同意義)だった富士川を下って、ヤボガタケで転覆して全員死亡」(遠藤秀男著「富士川・その風土と文化」)と多数の溺死者を出す遭難もあった。

また、ヨコ流しについても「宝暦八年(一七五八)六月、渡船一艘破船致シ、吉原宿ノ助郷人足七人死ス」と岩本村旧記にある。

この事故によって、七人の水死者を出した責任者(船頭)三人は直ちに入牢、そのうち二人は牢死、生き残った一人は駿河から追放されている。処罰はこれだけで済まず、岩淵村と岩本村の名主が、役職罷免のうち過料百五十貫をとられ、その他連座して罰金刑を言い渡された者が十人にも及んでいる。

富士川中央公民館の栞に「定渡船は長さ五間四尺(約十三メートル)、五尺二寸(約一・五八メートル)、深さ二尺(約○・六メートル)の船で舟底が浅いので平田船とも呼ばれた。船頭は一艘五人掛かりで一渡限りで交代したので一艘に十人が必要で、平日の当番船三艘には船頭三十人が当番で勤務していた。」とあり、この内容から入牢した船頭三人というと二人の欠員運航であったことが判る。連座十人というのは、往復の当番船頭を含めさらに何らかの責任を問われた者たちがいたのだろう。

 

 

 

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