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富士川の舟運

社団法人 関東小型船安全協会

事務局長 柳沼博(やぎぬまひろし)

 

富士川の開削

 

「明けはなれてのち、富士川わたる。あさ、河いとさむし、かぞふれば、十五瀬をぞわたりぬる。」十六夜日記、富士川渡渉の件りだが、鎌倉時代の富士川は十五の派川に分岐して駿河湾に注いでいた。

慶長十二年(一六〇七)徳川家康の命を受けて、京の豪商で当代一流の土木事業家でもあった角倉了以が、富士川舟運を開くための富士川開削と河口を一本化するための工事を実施したことによって、現在の海に注ぐ流路がほぼ定まったが、慶長十二年二月から開始されたこの工事は、十七年三月までの五年間を費やし、実に十九年の再改修で一応の完成をみている。

当時の土木技術は、「河灘(カワハゼ)の狭りて高き所は平らに堀り均し、広がりて浅き所は狭めて深くし、水面に出たる大石をば火をば用いて焼爛し、水面に隠れたるをば太く長き鉄(クロガネ)の錐を浮楼より釣り下げロクロにかけて突き砕く」(駿河国志)というものであったから、甲斐鰍沢(山梨県鰍沢町)から駿河の岩淵(静岡県富士川町地内)までの十八里を急流を闘いながらのこの工事は、大変な難工事であったことは想像にかたくない。

 

富士川舟運と海運の結びつき・その盛衰

 

古来、災害をもたらすだけの暴れ川が開削工事によって甲斐と駿河とを直結する交易路として「タテ流し」と称される富士川舟運が始まる。

この「タテ流し」に対する「ヨコ流し」が、富士川の定渡船で、慶長六年(一六〇一)東海道に宿駅を設けて、公用の人や物を運ぶために三十六頭づつの伝馬を常備する伝馬制を制定した幕府は、その翌年往還整備の一環として、集落形成のなかった岩淵に渡船役人を移住させ、東海道を横切る富士川の渡船を開始させている。

家康の全国統一は、新田開発や治水、灌概開削、農業技術の改善を呼び、農業生産力は戦国時代に比し、飛躍的な増大をもたらすとともに特産物が出現し、諸商品の流通が盛んになってくる。

こうした時代背景に海上、河川による諸商品の輸送が発展し、富士川舟運も、元和五年(一六一九)に開かれた大阪、江戸間の定期航路「菱垣(ヒガキ)回船(積荷が落ちぬよう舷側を菱形の垣を設けたのがこの名の起こりという。)」後発の「樽回船(駿河の回船を雇って、酒、酢、醤油などの樽物を主として運送していたことからこの名が出た。)」の東西海運と密接な関係を持つようになった。

この軸となったのは清水湊で、菱垣回船、樽回舟によって瀬戸内産の塩が移入され、甲斐の年貢米がこの湊から江戸に移出されている。甲州廻米と呼ばれる年貢米が富士川舟運に託されるようになったのは、寛永九年(一六三二)三代家光の時代からで、毎月十月下旬から十一月かけて、鰍沢、青柳(増穂町)、黒沢(市川大門町)の三河岸から積み出される甲州廻米は五万俵余、一艘四十俵、好天であれば一日百艘の通船が川面に連なったという。

廻米以外の下り荷は、生糸、薪炭、大豆、真綿、極等で、上り荷は、塩、海産物、油粕、畳表、茶、雑貨など、上り下りの荷物は岩淵、蒲原間は牛馬による陸送、蒲原、清水間は小廻しという百石から三百石積みの船で海上輸送されていた。

上り荷の代表的なものは塩で、岩淵および甲州三河岸の「出入裁許請書」、江戸町人竹内三郎左衛門「請負願書弁答書」などを見ると甲州の日用の塩は大俵(五斗三升)で年間十万俵余りの多量のものとなっている。

富士川舟運に使用された舟は、長さ七間半(約十三メートル)、幅六尺(一・八メートル)、舟底は一枚板、舷側を高くして川瀬の水の侵入を防ぎ、全体を比較的薄手にして弾力性を持たせ、衝撃を吸収しやすくするという知恵が働いた造りである。

 

 

 

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