航行を続けているうちに氷が薄くなったり、厚くなったりしていた。
午後七時三十分ころ流氷帯を抜けることができて機関を前進全速にした。二時間ほど航行して午後九時三十分営口新港の沖に到着することができた。港外にはあかあかと灯りをつけた六隻の貨物船が停泊していた。
営口新港の第九岸壁で飼料を積んで二月二十八日午後八時営口港を出港して石巻港に向かった。黄海から韓国の南岸を通過して、対島の南の沖を航過した。
日本海に入ってから北西の強風が吹き海は大荒れである。横揺れがはげしくて続航できず、秋田県の船川港で一昼夜ほど避難するほどの時化であった。
三月六日津軽海峡を通過し、七日午後九時石巻港外に到着した。八日七時二十分大手埠頭二号岸壁に着岸し、揚荷役をはじめたが吹雪がはげしくなったので中止した。
午後五時すぎに買船する中国の船主から派遣された船長と機関長が便乗者として乗船してきた。買船、引き渡しまで運航状況を見ながら船に馴れるためで、いずれも五十歳くらいであった。乗船早々船体や機関のことについての質問があった。
三月十一日午後八時石巻港を出港して翌十二日午後十時二十分千葉港外に到着した。十七日朝、川崎製鉄EA岸壁に着岸し鋼材製品の積荷役を開始した。二十日積荷役を終り、午後五時三十分千葉港を出港し基隆港に向かった。
そのころ、中国本土から台湾近海に向かってミサイルの発射訓練が行われていた。
台湾の北西方沖と東方海上に落下するとのことである。無線電信やナブテックスによる航行警報に注意しながらの航行である。本船の航行区域には影響なく三月二十七日午後基隆港に入港、東二号岸壁に着岸した。
間もなく来船の官憲、代理店に入港手続き書類を提出、書類は受理され乗組員一六人の上陸許可証の発給があった。しかし便乗者二人には許可証の発給はなく上陸禁止であった。中国と台湾の微妙な関係の中で、現在行われているミサイルの発射実験などで台湾近海には緊張感があった。
二十九日基隆港での揚荷役を終り午後八時三十分出港した。翌三十日も三十一日も北東の船首よりの強風に吹かれて難航した。四月一日午後佐世保港外に着き、水先案内人が乗船して入港し、午後四時佐世保重工業の第一号ドックに入渠した。
翌二日になって買船側の関係の人々がつぎつぎと来船した。中国のサーベイヤー関係の人もきて船体や機関を見てまわっていた。NK(日本海事協会)の書類や図面を丹念にみていた。
交代乗船する中国の乗組員も造船所内の宿舎に到着していた。続いて三日、四日は中国のクルーもきて、各部ともインベントリー(属具目録)によって備品などを確認しながら機器の操作方法も引き継いでいた。
今日は乗組員交代の四月五日である。午前十一時になって代理店を通じて依頼していた二台のマイクロバスがきた。下船者の手荷物が手際よく積み込まれた。
石巻港で三月八日便乗者として乗船してきた船長ともお別れである。一カ月近くの同乗の間には言葉の通じにくい面もあって、理解できにくいこともあった。
思えば長いようなまた短いような日々であり、今回のことは印象に残るであろう。