ずいひつ
つれづれに (30)
売船による下船
山本 繁夫(やまもと しげお)
岡安 孝男(おかやす たかお)画
いよいよ今日は下船する日となった。私が乗船していた船が中国の船会社に売船されたので、今まで乗り組んでいた私たち日本人二人とフィリピン人一四人が、売船側からきた中国人クルーと入れ替わることになった。乗船者の手荷物はすでに各船室へ運ばれており、下船者の手荷物は船から陸上に揚げられて、税関へ行ってチェックするために、手配したマイクロバスが来るのをまっている。
二年ほど前私は船長としてパナマ船籍のセシールデナマルカ号に乗船していた。船は一九八四年に竣工したので、私の乗船当時は船齢一四年になっていた。
新造船当初の数年間は地中海方面に就航していた。そのあと東南アジアの航路に変更した。往航は日本の港から雑貨を積んで東南アジアの港で揚げた後、スマトラ、ボルネオ、インドネシアなどの港で木材を積み、台湾、韓国、日本などの各港に輸送していた。
木材を輸送するようになって、船体各部の損傷やウインチ(揚貨機)まわりなどの故障なども多くなった。船が次第に古くなるにつれて、船体、機関などの修理に要する費用も多くなっていった。また運航も思うようにいかなかった。
船主のB海運は売船の計画を立て、日本や韓国、中国などの港に入港した際、バイヤー(買い手)が何回か船を見にきていた。しかし売船の話はまとまらなかった。
私が売船の話が決定したと聞いたのは一九九六年の二月中旬で相手は中国の船会社であった。韓国PPOHANG(浦項)(ポハン)港行きの鋼材を積むため、木更津港に到着したときであった。
木更津港でスクラップ(くず鉄)三、一五四トンを積んでポハン港で揚げたあと、中国の渤海(ポーハイ)湾にある営口(インコー)新港から飼料を積んで石巻港に輸送して揚荷後、佐世保港に回航して買船者に引き渡すという予定が組まれた。その後の二月二十三日、ポハン港で揚げたあと営口新港に向かう途中、売船引き渡しはもう一航海就航後にするとの電報がきた。
それによると石巻港にて揚荷後、千葉港に回航して鋼材製品を基隆(チーロン)港に輸送したあと佐世保港に回航してからのことであった。
二十六日午前四時三十分老鉄山(ラオテイシャン)水道を通過し渤海湾に入り、営口新港に向かった。午後五時ごろから流氷帯の中に入り、氷を押し分けながら航行を続けていると、氷が舷側をこする音が気になる。
機関の冷却用に使用する海水の取入口である船底のシーチェストから流氷の一部が入ってきてストレーナーがふさがってしまうので、氷を取り除くのにおおわらわだった。そのうちにストレーナーがつまってきてどうにもならなくなり、機関をデッドスロー(極微速)にして航行を続けていた。進行する前方海面の氷の少ないところを探していたが、暗くなってよく見えなくなってしまった。
仮泊しようと思って現在使用中のC重油から純度の高いA重油に切り代えたが、周辺の水が冷たいので切り代わるのに時間がかかった。