一九九八年十二月二十八日、救助されヘリコプターから運び出されるヨットの乗組員
(ロイター=共同)
レースの勝者
●一着のS号
E氏が所有するS号は二十八日午後八時過ぎ、ホバートのフィニッシングラインを横切り一着になった。S号のセーリングは全航程が正にサバイバルに近いものだったという。E氏は今回のようなレ一スに再び参加するかの問いに、冷静にいえないと前置きして「例え千年生きられたとしてもお断りだ」と。
S号は二十七日夜から翌朝にかけストームトライスルにNo.5ジブで走った。E氏は「うまくいったのは、タスマニア島に近づいたことだ。本来のコースとは反対のタックで走り続け、波に対してよい角度になり、島の風下に入り落ちついた。そうしなければボートが保っていたかどうか自信がない」といったという。
●一〇着の三五フィートM号
M号は小型艇だったが、多くのより大型艇を抑えて一〇着になった。M号も嵐の中の戦術と賢いサバイバルセーリングがもたらした勝利といわれる。
スキッパーが語る嵐到来の模様は「大きな雲がこちらに向かって来るのが見えたとき、No.1ライトのヘッドセールを揚げていた。恐らく五分で四〇ノット、さらに五分後には六〇ノットになり、さらに吹いてマストトップの風向・風速計を失った。恐らく七〇〜八〇ノットはあったろう」であった。
●ハンディキャップの勝者C号
C号のクルーは身障者七人(スキッパーを含む二人の失読症者、脳卒中障害者、切断手術を受けた人、二人の聴覚障害者、視覚障害者)と健常者五人の混成チームだった。C号は五〇ノットの嵐の中、バス海峡にNo.4ジブと三ポイントリーフで入った。スキッパーは「大陸棚を横切ったあと波が大きくなった。それからその日はずっとストームトライスルのみに抑え、バス海峡の横断もそれで通した」と語った。また、彼は「ボートやクルーは心配することはなかったが、初めてこのレースを経験する一二歳の少年が乗っていたので、彼だけが気掛かりだった。艇上では障害を持つクルーもしっかりと仕事をこなした。今われわれは単に参加艇の一つになった」と。
爆弾低気圧
一九七八年九月、超豪華客船クイーン・エリザベス?号がニューヨークに向け大西洋を横断中、予期しない暴風に遭い、高さ一〇メートルを越す大波で船体上部一部破損、乗客二〇人が負傷した。
調査の結果、この暴風は二十四時間に中心気圧が六〇ヘクトパスカルも下がる急速に発達した温帯低気圧によって起こったことがわかった。これを契機にこのような低気圧を爆弾低気圧というようになった。今回のオーストラリアの外洋ヨットレースを襲った嵐も爆弾低気圧であった。
日本近海でも年間一〜二回は爆弾低気圧が発生している。
専門的には、緯度六〇度を基準にとり、緯度φであれば中心気圧が二十四時間に24×(sinφ/sin60)以上下がったら爆弾低気圧という。
今回は緯度約四〇度なので、24×(sin40/sin60)≒18hPa
すなわち、中心気圧が二十四時間に一八ヘクトパスカル以上下がっているそうなので、参加各艇は爆弾低気圧の直撃を受けたことになる。
【ヨット・モーターボートの雑誌「KAZI」一九九九年三月号の"バス海峡の悲劇"を参考に作成した。】