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その島にいる魚鳥や草木も前の島同然でした。その島に、木の元の周囲が二尺(六一センチ)ほど、高さ一二、三尋(六〇尺〜六五尺・一八〜二〇メートル)もあり、葉は茗荷(みょうが)の葉に似た、実に見事な木があったので、長さ一丈(一〇尺・三メートル)ほどに二本切り、船に積み込んで持ち帰りました。この木は最初の島にもございました。

ここに五、六日滞在し、朝方出船、南風を受けて翌朝まで走りましたところ、また、島(聟島か)がありましたので、船をつなぎました。走行海路は一二、三里(四四〜四八キロメートル)ほどでした。今度の島は前の島よりも狭く、山も低く見受けました。湊は前の島もこの島もございませんでした。漂着した島からこの島までの間、所々に小島が二〇ばかり見えました。

この島にも二日間滞在し、朝方出船、北西の間へ揖(かじ)を取りました。強い順風(追風)を帆に受け、または横風を開き帆にして受け、昼夜走り、八日ぶりに八丈島へ到着しました。島の者に尋ねたところ、四月二十五日(六月十二日)であるとのことでした。

漂着した島から八丈島までの海路は二七〇〜二八〇里(一、〇〇〇〜一、一〇〇キロメートル)ぐらいではないかと存じます。帰帆中、洋上では唐船も日本船も、一艘も見掛けませんでした。

 

八丈島での様子

 

八丈島へ着きましたところ、島のお代官がお世話下さり、六カ村から麦一斗二升を集めて、私どもへ下さいました。八丈島出船に際しましても、お代官様が何かとお世話下さいました。

二番目の島できり取って参りました二本の木のうち、一本は八丈島のお代官がご所望なされたので、進呈しました。残り一本は伊豆洲崎(静岡県下田市須崎)の宿主利兵衛に預けて来ました。

 

無事に帰国

 

八丈島を五月五日(六月二十二日)の朝出船しまして、同七日(六月二十四日)の昼時分に伊豆の洲崎へ着船いたしました。浦人がすぐ下田御番所にお届けするように申しますので、陸路御番所へ出頭し、事のてん末を申し上げましたところ、船で乗って来いと仰せつかりました。

その三日後に船で下田御番所に行きましたところ、御奉行所より御改めがあり、別儀はないので洲崎へ回航して差し支えない、との仰せを受けました。

さっそく洲崎へ船で戻り、そこでこの船を売却し、陸路紀州藤代へ戻り、便船により阿州浅川浦へ立ち戻りました。

以上

寛文十年八月十日

(一六七〇年九月二十三日)

浅川浦

水主 安兵衛

同 彦之丞

同 三右衛門

 

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八丈島登竜峠から望む底土港

 

船名の丸と号

 

日本船の船名には末尾に丸をつけるのが普通であり、それがマルシップと呼ばれるゆえんでもある。なぜ丸をつけるのかという疑問は、日本船が国際場裡で活躍し始めた昔からあったが、人、犬、刀、そして船などの名前に丸をつける習慣が古くからあるというだけではなかなか納得できる根拠にはならないようである。明治三十三年(一九〇〇年)にできた船舶法取扱手続の「第一条船舶ノ名称ニハ成ルヘク其ノ末尾二丸ノ文字ヲ附セシムヘシ」が強制を示すものではないにしても、政策的な指導の結果として日本船の船名に丸を定着させたのは当然だといえよう。日本人が外国船の船名に号をつけて呼ぶ習慣は中国からの影響らしいが、丸に号を重ねているようで少し妙な感じがする。

(杉浦昭典著「海の昔ばなし」から抜粋)

 

 

 

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