この島には厚朴(こうぼく・モクレン科ホオノキ属の高木)、無患子(むくろじ・ムクロジ科の落葉高木)、いずれも二抱え三抱えほどの大木でございます。棕欄(しゆろ・ヤシ科の常緑高木)も林立しています。このほか、見知らない木もございます。草はまったく知らないものばかりです。手拳(てこぶし)ほどの赤い石も少し見受けられました。
獣(けもの)類はいないようで、何も見かけませんでした。
鳥類は鶯(うぐいす)、岩つぐみ、山鳩、烏、その外五位鷺(ごいさぎ)のような恰好をした柿色の鳥、鶏(にわとり)の雛のような体型をしており、頭は赤い毛、全体は黒い毛で、くちばしと足は赤い鳥、また、鴎(かもめ)に似て、魚を捕る鳥もいます。その他の鳥は見受けませんでした。
魚類は黒鯛(くろだい)、鮫(ふか)、鯔(ぼら)、三尺(九一センチ)ばかりの海老(えび)、同じく三尺(九一センチ)ばかりの章魚(たこ)、それに大小の亀を多く見かけました。国元にいるような磯魚も多数泳いでいます。飽(あわび)ほどの大きさの嫁が皿(つたのはがい科の巻き貝)が岩に取り付いているのも多く見受けました。二、三月(三月下旬〜五月中旬)のうちは、鯨も多く見かけました。
島の気候は、二月(三月下旬〜四月中旬)ごろは、国元の五月(六月中旬〜七月中旬)の暖かさです。三月(四月中旬〜五月中旬)ごろは、国元の六月(七月中旬〜八月中旬)の暑さでございます。四月(五月中旬)に入ってからは、いよいよ暑さが増し、石の上などは素足で踏めないくらいです。もっとも、ここでは裸で暮らしていました。蝿や蚊は多くいます。蚊は昼間に多く出て、食らいつきますが、夜は出ません。
漂流中の生活
漂流中の状況をお話ししますと、去年十二月十八日(一六七〇年二月八日)に飯米を食べ切り、それから正月二十一日(三月十二日)まで蜜柑を食べました。この日に二尺四、五寸(七三〜七六センチ)ほどの熊引(九万疋とも書く・「しいら」の異名)二匹を釣り、食べました。正月二十三日にも熊引三匹を釣り、その後は毎日のように釣り、食料としました。
また、ある日、三尋(一五尺・四メートル五〇センチ)ほどの青魚(「青鮫」か)が船に付きましたので、綱でくくり揚げ、これも食料としました。残りは切り干しにして保存食としました。
水が切れたときは、海水を飲みました。日は忘れましたが、夜四つ時分(午後十時ごろ)に雨が降りましたので、伝馬船に受け、三升ほどの雨水を得て、これを飲んだこともございます。
島での食料
島に滞在中は、亀や魚を捕って食料にしました。鳩や五位鷺に似た鳥も手捕りにして、煮て食べました。帰帆の節も、亀や魚を切り干しにして俵に入れ、豆州下田(静岡県下田市)へ帰着するまで、兵根粮(ひょうろう・糧食)にいたしました。
四反帆船の建造
この島へ漂着後、本船から碇(いかり)を入れましたところ、綱が摺り切れ、磯へ打ち揚げられて破船しました。この破船から海具(大工道具等か)を集めておき、前に端船で島廻りの際に拾った楠木板を航(かわら・船首から船尾まで通した厚い船底板材)にして、五〇日間ほどの島滞留中に、四枚帆船(約二〇石積・載貨重量トン数では約三トン)を造り立てました。
無人島から八丈島へ
出船に当たりましては、この島から西北の方向に島山(父島か)が見えますので、その方向へ向け、朝方出発しました。そして、同夜半にその島にはせ着きました。その間の海路は一二、三里(四八キロメートル〜五二キロメートル)もございましたでしょうか。その島の広さ、山の高さは、漂着した島と同じぐらいでした。