本社を東京に置き、資本金七千三百万円で、日中間、中国沿岸、中国と諸外国間航路等の海運業、埠頭と倉庫業の経営、並びに附帯関係事業などを掲げて日本郵船、大阪商船、日清汽船など主要船主十一社が資本参加し、社長には元内閣官房書記官長河田烈が就任、参加各社代表が役員になり、昭和十四年八月十二日に官民一体の、東亜海運株式会社が設立された。
母体は当時中国一円に航路を持つ日清汽船で、それに日本郵船や大阪商船の日中航路使用船などが出資船として提供され、各社の長い歴史ある航権も共に移譲された。
主な出資船は日本郵船の上海丸や大阪商船のばいかる丸など合計五十九隻、十四万四千総屯の船隊で、十月一日に営業を開始した。
因(チナミ)に国策会社第三号は東亜海運より四か月半遅れて、同年十二月二十九日に設立された日本海汽船で、翌十五年二月十一日に営業を開始した日満北鮮連絡航路である。
新会社東亜海運発足後の新造船は、設立以前に日本郵船が発注し造船所で艤装中に移籍した妙高(ミョウコウ)丸と、日清汽船が発注して建造途中の興泰(コウタイ)丸、寧波(ネイハ)丸等六隻、合計七隻に続いて、新会社の発注第一船は上海航路の増強用に計画された八千屯級の新鋭高速貨客船神戸丸で三菱長崎造船所に発注された。
この船は日本郵船が上海航路に就航させていた姉妹船上海丸と、長崎丸の拡大改良型鋼製貨客船で、総屯数七、九三八、主機は三菱ツェリー式衝動型蒸気タービン二基、最大出力一五、二六〇馬力で、最高速力二一・八節、全長一三八・五米、幅一八、深九・八、船客設備は一等一四九名、三等四四八、計五九七名の定員となっていた。
貨物艙内には日本船として最初の自動車格納庫を設け、船内には船客手荷物用のエレベーターを備えて迅速なサービスを行ない、又救命艇の昇降用には三菱式ダブルアクション端艇鈎(ボートダビット)を採用し、安全で急速取扱いが好評であった。
更にタービン船の生命である主汽缶に我が国で最高圧・最高温の三菱三胴型水管缶を装備し、焚火装置には省人力化のメカニカル、ストーカー付給炭装置が採用されて居り、太目(フトメ)の一本煙突が稍後方に傾斜し、前後檣に沿って揚貨柱(デリックポスト)が二組あり計六本のデリックで、前部二、後部一の三船艙に貨物を積載、船体は均整良く白と黒に塗られた美しい容姿の船であった。
昭和十五年十月十九日に竣工、三十一日午後十一時長崎港を出帆して上海向け処女航海の途に就き、既に上海航路で活躍中の、長崎丸、上海丸と共に定期就航となった。
太平洋戦争開戦後の十七年五月船舶運営会が設立されて、同会の使用船となり、引続き繁忙を極めた上海航路で活躍したのである。
同年十一月十一日長崎から上海向け航行中の午前五時二十八分、揚子江河口沖約九〇浬の地点に於て、日本郵船の鉄鉱石船天山(テンザン)丸と衝突し、約三十分後の午前六時に沈没、僅か二年二か月の短い生涯を終った。船客五六名と行方不明二六名の犠牲を出し、残る生存者は附近航行中の龍田丸と雲仙(ウンゼン)丸等に救助され上海に移送された。
この衝突事件は後日調査の結果戦時の制限航路内で、無灯火航海を強いられ起った戦争海難と判断され両船の不可抗力が認められた。
松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)