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実録 小笠原母島漂着記 (1)

株式会社テトラ

顧間 浦川和男(うらかわかずお)

 

はじめに

 

今を去る三二九年前の寛文九年十二月六日(一六七〇年一月二十七日)、紀州から江戸への蜜柑を銀八三〇匁で請け負い、江戸へ向っていた一一反帆廻船が、名にし負う海の難所、遠州灘(静岡県西部の浜松、掛川、横須賀、相良の沖合)で難風に出会い、沖合へと流された。そして、七二日目の寛文十年二月二十日(一六七〇年四月九日)、幸運にも、八丈島からはるか南海の彼方の孤島、小笠原諸島の母島とおぼしき無人島へ漂着した。

この廻船に乗り合わせた七人のうち、船頭は母島で死亡したが、他の六人は破船となった本船の舟板で四反帆船をこしらえて、在島五〇日ほどの後に島を脱出、寛文十年五月七日(一六七〇年六月二十四日)、八丈島経由で無事に伊豆下田へ生還した。

この海難事件は、初めて南海の洋中に無人島があるという情報を日本国にもたらし、その五年後に当たる延宝三年(一六七五年、幕命による官船(五〇〇石積の唐造り船)の見届け巡見が実施され、後世の小笠原諸島日本領土帰属に多大の貢献をなした極めて重要な出来事であった。この海難のてん末については、阿州藩役人が作成したと思われる阿州浅川浦(徳島県海部郡海南町浅川)の水主(かこ・水夫)三人の口書(供述調書)伝写本と、紀州藩役人が作成したと思われる紀州藤代(和歌山県海南市藤白)の商人長兵衛の口書伝写本が残されている。

 

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大船渡商工会議所が中心になって平成四年に完成した千石船

 

また、この勘左衛門船乗組員が帰国に際して立ち寄った八丈島にも、島の神主兼地役人であった奥山家の奥山日記に、その目撃記録が残されている。

本稿では、これらの阿州藩口書と紀州藩口書の記述内容がどんなものであるか、また「八丈実記」で記載されている関連記事とはいかなるものか、できるだけこれらの文献内容を損なわないように留意しながら、現代語訳して紹介することとしたい。

本稿で用いた史料等は、阿州藩口書については「寛文十年無人島漂流記」(『小笠原島紀事・巻之二十七』・国立公文書館内閣文庫蔵)、紀州藩口書については「寛文十年ニ紀州藤代村ノ廻船難風ニアヒ遠嶋エ吹流サレテ皈帆ノ時ノ覚書ノ次第」(『玉適隠見・巻第二十一』・西尾市立図書館岩瀬文庫蔵)、八丈島役人記録については「奥山日記引用記事」(『八丈実記・第二巻』近藤富藏編著・東京都立中央図書館藏)である。

なお、阿州藩口書には紀州藤代の商人の口書も記載されているが、これは明らかに後世の編者が紀州藩口書の一部を付け加えたものであろう。この部分は「補遺長兵衛口書」として、阿州藩口書から分離し、別項を設けて付記した。

また、これらの外に、前記文献の類書(後記の参考文献一覧参照)をできるだけ集めて通読し、補強参考資料としたことを申し添えておく。

本稿中の( )内の記述は、筆者注釈である。

 

 

 

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