その大半は戦時中に急造された戦時標準型船や、低性能船で実際に稼動できる船舶は八〇万総トン程度にすぎなかった。その残った一八%ほどの戦後全日本船舶は、占領軍総司令部の管理下に置かれた。一〇〇総トン以上の船舶は運航を停止されたこともあった。昭和二十年九月五日民生安定維持に必要な船舶の運航が許可された。機帆船の沿岸航行、離島航路および瀬戸内海定期航路の就航が解除された。
九月下旬から外地残留邦人六六〇万人の帰還輸送および食料品その他緊急資材輸入のため、大型船の運航が再開された。これらはすべて占領軍総司令部の計画輸送だった。
昭和二十七年四月二十八日平和条約が発効、占領軍総司令部は廃止された。日本は六年六カ月ぶりに独立国の地位を得た。平和条約発効当時、わが国の保有船腹量は千七十隻、二六〇万総トンにまで回復していた。
太平洋戦争において壊滅的な打撃をうけた日本の海運界は、現在では実質世界一の保有量を持つ規模にまで成長している。
平成元年十一月十三日、私はパナマ船籍ボルニオンデュア号に乗船していた。マレーシアのビントウール港で木材積を終了、午後十時三十分に出港、揚荷のため島根県浜田港に向かった。
ピントウール港を出てから連日北東の季節風が強く、船のスピードはあまり出なかった。ルソン島の北端沖を通過してから、風浪は一層はげしくなってきた。
荒天続きの中を難航していると、十九日午前十時ごろ、エンジンが故障してストップした。船は時化の中で強い風浪にさらされながら波浪にほんろうされていた。甲板上五メートルほどの高さに木材を積んでいるので、ラッシング(固縛)状態が気がかりだった。
いつ予期しない事故が起こるかもしれないという不安な気持ちが頭の中を占めていた。約三十分漂流したころになって、ようやく応急修理ができて再び航行を続けることができた。船位は鵞鑾鼻灯台より約五〇カイリ南西方であった。
先の戦争が終って半世紀以上になる。海運界の復興とともに戦争の犠牲になった戦没船員のことがいろいろな形で語られている。歳月の経過や世代の変化とともに次第に風化されてゆく昨今である。
平成七年、全日本海員組合が創立五十周年記念事業のひとつとして、戦没船員慰霊団を主要戦没海域に派遣することになった。現在の日本の平和と繁栄の礎となって逝った先達を心から悼み、鎮魂の祈りを捧げようと、六海域一〇カ所に行くことになり、バシー海峡方面に参加した人々は商船三井の協力で、香港からコンテナ船に便乗し、バシー海峡で船上慰霊祭を行ったとのことである。
灯台の入口の門を入ると、左側に白い瀟洒な資料館がある。資料の展示品を見た後海辺に出た。今日のバジー海峡は静かである。遠く沖合には南下している貨物船が一隻見える。
海辺は小さな岩が多いので歩きにくい。ところどころに木道が設けられているので、そこだけは歩きやすくなっている。木道の一隅に立ち止まって掌を合せ、バシー海峡で戦争の犠牲になった人々の冥福を祈った。
安らかにねむれ わが友よ
波静かなれ とこしえに
(東京湾口観音埼・戦没船員の碑文)