ずいひつ
つれづれに (29)
波静かなれ−鵞鑾鼻へ−
山本繁夫(やまもとしげお)
岡安孝男(おかやすたかお)画
前方に白亜の灯台が高い。南の強い太陽の日差しを受けて、ひときわその白さが映え、引き立って見える。今しも数人の男女グループがにぎやかに話し合いながら「財政部関税総局鵞鑾鼻(ガランピ)灯台」と書いた看板のかかる門を入っていった。一九九八年五月三十一日の平和な朝のひとときである。
前日、船長として私の乗船する貨物船は、台湾の高雄(カオシュン)港西十二号岸壁に接岸した。三日間ほど停泊する。鵞鑾鼻灯台、この半世紀以上もの間、私の行く手を照らし続けてくれた高塔までは、高雄港から約一一〇キロメートルある。
高雄港にはよく入港するものの、いつも停泊時間が短く、訪れる機会がなかった。海の側からではなく、光源の側から沖合のバシー海峡を臨み、その海で戦死した人たちや同僚たちの魂を鎮めたいと願っていたのだった。
ようやくその機会がやってきた。午前五時すぎ本船を出発、タクシーとバスの乗り継ぎで午前九時十八分に到着した。
鵞鑾鼻灯台……台湾の南端に位置するこの名を聞くとき、長い間海上生活を続けてきた私には、重くずっしりとしたものが心に迫ってくる。
太平洋戦争中、この周辺の海でどれだけ多くの船が敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、またどれほど多くの乗船中の人々が海の中に深く消えたであろうか。
昭和十九年一月、私は陸軍徴用船の玉鉾丸に乗り組んでいた。フィリピンのマニラ港で、龍野丸、東宝丸、阿蘇山丸と本船の四隻で船団を組み、一月十三日マニラ港を出港、台湾高雄港に向かった。
船団の護衛には水雷艇の友鶴がついた。フィリピンのルソン島の北端付近にあるボジドール岬の沖を通過して、バシー海峡に向かった。
バシー海峡は、ボジドール岬と台湾の南端付近の鵞鑾鼻との中間よりやや台湾寄りの海峡で、冬季には北東の季節風が強吹し、海がよく荒れて航行船舶の難所である。また水深が三、〇〇〇メートル以上もあり、潜水艦の活動が容易で、魚雷攻撃を受けて沈没した船の多い海峡でもあった。
事実、敵潜水艦出没の情報は頻繁にでていた。出港して二日目の一月十五日午後十一時すぎ、船団の中の龍野丸と東宝丸が敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。十六日の朝、東宝丸は沈没して、船影はすでになかった。
龍野丸は無残にも船体の前半部が切断され、分断沈没したため、船橋から後半部のみの痛ましい姿で航行していた。龍野丸の後半部も間もなく浸水してきたため総員退船し、乗組員は阿蘇山丸に救助された。その後、十七日に沈没した。その位置は鵞鑾鼻より約一〇〇カイリ南々西方のバシー海峡であった。玉鉾丸と阿蘇山丸は二隻で高雄港に向かった。
船舶の規模は、太平洋戦争開戦前には六三〇万総トン、終戦当時には一四〇万総トンほどだった。