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このような渡来船の台所(調理場)に安住の地を求めたのがチャバネゴキブリで、小ぶりの茶褐色をしたすばしこいやつである。夏ならば二〜三カ月で卵から成虫に育ち、成虫はさらに三カ月以上も生きて繁殖を続けるという猛烈なゴキブリであるところから、現在最も注目されている種類の一つである。日本でも寒い北海道はゴキブリの少ない場所であるが、チャバネゴキブリだけはちゃんと住みついているという。一般家庭の台所にはむしろ少なく飲食店やビルの中などが主な根城で、新幹線の食堂、船舶の調理場・食堂、飛行機などで見かけるのはほとんどの場合このチャバネゴキブリであるといわれる。

さて、これから船舶に住みついたチャバネゴキブリについて話してみたい。

このゴキブリは、本拠地のギャレー(賄所(まかないしょ)、厨房(ちゅうぼう))に留まらず、さらに生活の場を広げて船室の方まで侵入してくるから厄介である。船では、ねずみ族の駆除のことを「船内消毒」といい、船全体を密閉して猛毒の「青酸ガス」を使用して船内を消毒する。この時にゴキブリ退治も実施するが、成虫は死んでも卵がそのまま残っているので根絶するまでには至らない。その卵はギャレーの木製部に生みつけられているのではなく、ペンキのひび割れの内側とか、さらにその下の浮き上がった鉄さびの下とかなのでどうにも厄介である。

前述したように、チャバネゴキブリは卵から成虫になるまで二〜三カ月を要するので、この間隔で何回も船内消毒を行えばゴキブリを絶滅させることは可能なはずである。しかし現実には、消毒のための船の係留や費用の面から短期間ごとの船内消毒は難しく、また仮にゴキブリを完全に駆除したとしても、ゴキブリはその後に積み込まれる貨物や食糧あるいは乗組員の転船荷物等にまぎれ込んで侵入してくる可能性は十分にある。さらにチャバネゴキブリは殺虫剤に対する抵抗性がつきやすく、防除面では最も厄介な害虫であることも船舶のゴキブリ駆除を極めて困難にしている理由である。

最近ではゴキブリ退治に有機燐剤等を使う積極策を用いているが、かって船では成虫を生け捕りにする方法もあった。その生け捕り方法はガラスコップの内側、深さ半分ぐらいから下にバターを塗り付け、部屋の隅のゴキブリが伝い歩きしそうな場所に置くのである。バターに誘われてコップの中に落ちたゴキブリは飛ぶに飛び立てず、はい登ろうにもバターに足をとられて滑り落ちるという寸法で、ゴキブリにとってはまさにあり地獄に落ちたも同然である。これはちょうちょや蜂は助走なしでその場から飛び立つことができるが、ゴキブリは助走なしでは飛び立てないという性質を利用したもので、驚くべき先人の生活の知恵である。このゴキブリ捕獲法は今も船に伝えられているはずである。

ところで、昔の船乗り達は生け捕ったゴキブリを各自が小瓶の中で大切に育て、飼育中のゴキブリの羽根には好きな色のペンキが塗られていたという。これはゴキブリが飛び立てないようにするためと、オーナーの目印であった。

かくして「ゴキブリ・レース」開催となるわけだが、レースは木甲板上のシーム(甲板材の継ぎ目)を利用して幅と距離をきめ、チョークで描いたコースを使用する。レース前には各自秘伝の「ゴキブリ強壮剤」を与えるが、一般的なものは「わかもと」で、この錠剤を粉末にしてゴキブリに振りかけたという。

「昔はのォ、そんな娯楽しかなかったけんのォ……」

とは、広島・瀬戸内出身の老水夫の話である。

 

 

 

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