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2. 住民参加のまちづくりへの移行

昭和44年5月18日の加賀市での大火(68棟焼損)を最後に「もう、市街地大火は根絶された」という風潮が形成されたかに見えたが、昭和51年10月29日、山形県酒田市の中心市街地で1,774棟が焼損する市街地大火が発生した。酒田市の復興計画が策定され都市計画決定がなされる頃、建設省は総合技術開発プロジェクトの一環として、昭和52年度を初年度とする5ヶ年計画「都市防火対策手法の開発(都市防火総プロ)」の予算を内示した。

都市防火総プロは、それまで断片的に耐火化されてきた市街地を延焼遮断帯に囲まれた「都市防火区画」によって再構成し、市街地大火を局限化するための技術を開発することを最終的な目標とした。その中間的な成果や東京都墨田区での先進的な取り組み等を踏まえ、昭和55年には、定められた区域内で木造建築等を耐火化しようとする場合に、一定の助成をおこない得る「都市防災不燃化促進助成」が建設省によって制度化された。

並行して、東京都では「地域危険度測定調査」の公表(都市計画局所管、区部の第1回が昭和50年)や関東地震の再来を前提とした地震被害想定調査結果の公表(総務局所管、区部の第1回は昭和53年)等を踏まえ、また、都市防火総プロの成果を活用した「防災生活圏構想」を骨子とした「都市防災施設基本計画」を、昭和56年、策定した。この計画は、1] ネットワーク化された延焼遮断帯(総延長約1,200?)で大地震時の市街地大火を分断することによって都民の生命と財産を保護し、2] 延焼遮断帯によって囲まれた個々の防災生活圏(約700ブロック、平均65ha)の生活環境の改善とコミュニティの育成を図り安全で快適なまちづくり目指そうとしたものであった。

「防災生活圏構想」は、昭和57年12月、東京都長期計画(10ヶ年計画)に位置付けられたものの、防災生活圏内の整備計画の立案とその事業化は当初指定された3ヵ所のモデル生活圏のみであり、その後、「防災生活圏促進事業(都が指導・助成し、区が施行)」に引き継がれはしたが、平成6年時点で10区が調査・計画策定・防災まちづくり事業に着手したのみであった。

昭和50年代は、高度成長から安定成長への移行期であり、行政主導による都市・まちづくりに大きな転換を迫った時期であった。また、市街地再開発事業や士地区画整理事業のような画一的で地区・街区の全面更新を目指す事業手法が持っている課題が表面化してきた時代でもあった。

一方、東京区部では、大規模工場の移転等によって江東デルタ地帯の火災危険性が相対的に低下し、関東大震災からの復興事業の波及によってスプロール的に市街化した環状六号道路と環状七号道路に挟まれた“木賃ベルト地帯”の脆弱性がクローズアップされた。

 

 

 

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