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しかし実際には、全くそのような場面はどこにも観察されておらず、調べてみると、単に記者が取材過程で市民に誘導尋問的電話インタビューをしたり、それを意図的ではないにせよ結果的に「パニック発生」と読みとれるように歪めて文章化してたことが明らかになった(安倍・岡部・三隅、一九八八)。このような深刻な誤報に至らずとも、巷にはパニックという表記が反乱している。夕刊紙・スポーツ紙には、毎日至る所でパニックが発生しているように思わせる見出しが色とりどりに踊っている。

大火災の高層ビルで、救助を待つ人が熱さに耐えかねて転落する、という映像は、いわゆる「衝撃の映像スペシャル」の類のTV特番でよく報じられる。気の毒に、しかし、彼は微かな可能性にかけて飛び降りるのではないかと、これまでは考えられていた。ところが一九七三年、釧路のオリエンタルホテル火災で救出された女性が、「梯子車の救助を待ちながら五階の窓から交代で首を出して空気を吸っていると、首を突き出すたびに眼下のホテルの庭が近づいて見えてきた(この高さなら飛び降りられるのではないかと思ったそうである)」と証言したことなどから、助かりたいという強い欲求によって地面までの距離感が歪められてしまう「認知の変容」が起こっていたことが分かってきた(原子力安全技術センター、一九九八)。すなわち、高層ビル火災で転落してしまった人は、パニックに陥っているのではなく、彼らの置かれた状況の中で精一杯合理的判断をくだした結果の行動(ダイビング)をとっており、それが不幸にも転落死という最悪の事態につながったという解釈である。人間は与えられた状況の中で可能な限り全力を尽くし合理的な判断・行動を追及するものである。いたずらにパニックという用語を乱発するのは避けたいところである。

 

(二) 被災者の意識を規定する要因連関の探求

被害が発生する、あるいはパニックが起こる等々の状況を考察してきたが、しかしながら、現実はそうした被害が生じないよう様々な対策が講じられており、それが現に奏効している。それを表現したのが図1である。この図では、災害という現象がいかに社会的なものであるかが示されている。くり返しになるが、「地震・即・震災」とは決してならないのである。対策が奏効するか否かはもちろん重要なポイントであるが、それ以上に人々の意識や知識、近隣での防災文化の蓄積・風化、さらには結果として防災に脆い構造を造成する事につながることにもなり得る大規模開発等々、災害という現象およびそのプロセスには社会的要因が不可分に絡まっている。こうしたことを考え合わせると、災害心理学という領域で探求されることは被災地という場に存在している人々の、意識を規定する諸々の要因連関を解明することが求められるのであり、不安な心や混乱模様を記述するだけでは分析不足ということになる。上述の火星人侵入の事例研究では、一九三〇年代当時のアメリカの世相を分析して、ファシズムが台頭し迫り来る戦争の予兆を切実に感じていた時代に外部からの侵略に過敏になっていた、という解説が付されている。

 

二、「災害」という状況再考

次に、もう少し研究の足許を再確認してみたい。災害心理学という時の「災害」とはいかなる状態を言うのか。日頃、消防・救急の現場に出場している読者のみなさんには釈迦に説法だが、実はこのスタート地点をきちんと確認せずしてこうしたことを研究したり、対策を考えているところが巷には意外と多く見うけられるのである。

 

(一) 勘違いの「災害」対策

例えば、こういう事例がある。ある企業では阪神・淡路大震災の教訓から社内の危機管理体制を見直し、震災時の非常参集・災害対策本部の立ち上げを検討したという。「総務部長が災害対策本部長となって本部を立ち上げ、迅速に情報収集をする」そうである。ところがそうは簡単にことは運ばないはずである。まず、当の本部長が被災しているかもしれないし、通常の時間・経路では出社できるということはまずないであろう。また、社屋も相当被害を受けていて情報回線も混乱している。つまり災害対策本部を設置することになっているビルは壊れ、電話やインターネットは通じない。誰が、どこに、どうやって本部を立ち上げその活動を展開するのか。こうしたことの検討が、通常の状態を前提として通常の思考回路でなされてしまっていて、災害時という基本的な認識が欠けているのである。この会社では阪神の教訓は、日常時の緊急出社訓練、例えば、顧客のクレームに緊急対処すべきという事態に対する意思決定・対応訓練と同じ土俵で検討されてしまったのである。この検討をもって震災マニュアルができあがったと勘違いしてしまったようだ。

 

 

 

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