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災害心理学〜社会科学的災害研究の奥行きとプルーラリズム(多元的な視点)

専修大学文学部専任講師 大矢根 淳

 

「災害心理学」と聞くと、まず真っ先に何が思い浮かぶであろうか。災害時の人々の心理を研究する学問だから、人々の不安な気持ちとかそのもっとも先鋭な形と見うけられるパニックとか、そのようなことを想起する人が多いようである(大学の講義で最初の授業で受講生に問いかけるとそのような回答が多い)。今回は災害心理学で取り扱われるいくつかのトピックスを紹介しながら、実はこの学問領域は思いのほか幅広く奥深いことを感じていただければ幸いである。

 

一、「災害心理学」という領域

社会科学的(心理学もその一部に位置づけられ得る)災害研究では災害を次のようにとらえている。「災害とは、社会システムヘの入力として、突然起こる大規模で好ましくない変化としてとらえられ、その社会システムの成員がそこから期待する生活諸条件を十分に得られなくなったときに起こる」(バートン)。すなわちまず災害とは、常に人間の生活場面との関わり合いにおいてのみ意味を持ちうるのである。例えば、ライフライン等に強く依存している「社会生活がそれが存する社会システムの支障により、生活障害を経験し、そこで日常的な行動に異常が生じている状態」などを想起してもらいたい。したがって、1]絶海の孤島に大型台風が襲来しても災害とはならない(誰も、何も被災しない)のはもちろんであるし(災害とは認識され得ない)、2]相当の防災体制が奏効して被害が出ない場合もある(自然現象が災害へとは発展しない)。逆に、3]火星人が地球に侵入してきたとの情報で国中で大混乱が発生したという史実もある(A.H.キャントリル、一九七一)。

 

(一) パニック研究

3]について。この混乱は一九三八年一〇月三〇日夜、アメリカで発生した。アメリカのCBSラジオが放送したSFドラマ「宇宙戦争」は、火星人が侵入してきて地球が破滅に至るという架空の実況ドラマであった。架空ではあったが放送の内容があまりにリアルにできていたため、特に放送を「途中」から聞いた人はそれを本物と思い込み、この放送が終了する前から、狂ったように祈ったり泣き叫んだり、逃げまどったり、あるいは、愛するものを救おうと駆け出したり、電話で別れを告げたり危険を知らせあったり等々、全米で放送を聞いていた少なくとも六〇〇万人のうち一〇〇万人ほどが何らかの混乱を来したという。

この例はパニック研究の一例である。先述の社会科学的災害の定義に照らし合わせてみると、火星人侵入=地球破滅という社会システムの危機に応じた人々の混乱状況として理解できる。

ところが今日の社会科学的災害研究では、パニックについてそれは非常にまれな現象であり、めったに起こらないものであるという認識が大勢を占めている。パニックとは「生命や財産に対する直接的かつ切迫した危険を認知した不特定多数の人々が、危険を回避するために、限られた脱出路もしくは希少な資源に向かってほぼ同時に殺到することによって生じる社会的混乱」と定義される。危険から逃げようとする「逃走」はもちろん(「逃走パニック」)、トイレットペーパーの買いだめ騒動(「獲得パニック」)などもこの定義にかなう。上述の火星人の襲来は「情報パニック」である。一方、「擬似パニック」と呼ばれるものもある。マスメディアの誤報などによって社会的混乱が誇張されてパニックとして誤って伝えられることなどをいう。一九八一年一〇月三一日、平塚市内に設置された同報無線から市長の声(録音テープ)で「警戒宣言発令」のメッセージが流れた。これを翌日の新聞では「…避難袋を抱えて戸外へ飛び出す市民がでるなど、市内はパニック状態に陥り…」と報じている。

 

 

 

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