案の定、私が東京文化会館でおつき合いのあるオペラ関係者の方も、たくさん見に来られて、共通して言ったことは、こんなのはオペラじゃないということと、なぜこれをオペラでやらなくちゃいけないんだということなんです。その話を聞いたときに、これは本当にやる意義は大いにあったと思いまして、結局そういうことが可能になるというのは、やはり芸術監督というものが、本来初めて、今までない形でできましたでしょう。そういう効果として、ああいうものが生まれてきたというのは、大きいと思います。
市村さんがいろいろおっしゃった、今までは枠組みだとかフレームの話ばかりで、そっちのサイドからいろんなことが言われているけれど、実はアートについてはわかっていない議論がほとんどで、やはり、アートの中身の議論と枠組みの議論と、そこで出会って、展開できるような基盤になってきて、独自のいろんなやり方でいいから。
ですから、私は政治家の皆さんが行政、実はある意味では文化政策というのをどう考えているか、途方に暮れているんですが、今しばらくは途方に暮れた状態の中で、芸術にいろんなものが得られていくというのが、やはり見ているしかない時代のような気がします。ただ、見ているだけというのは非常に無責任な話で、NPOとか、明らかに課題のあるものについてどうするかということです。優先的にとらえていけばいいんじゃないかという気がしています。
市村 確かに、オペラをやる意義があるかという問題ですが、オペラの新しい形態を生み出すべきなのか。それともオペラはすでに18、9世紀のものなのか。新しい形式をやるなら、何を新しくするのか。新しいオペラは世界にはいっぱいあります。ロバート・ウィルソンの新しいオペラとか、スティーブ・ライヒのオペラとか、いっぱい新しいチャレンジがある中で、日本だけ何でそのチャレンジが起きないのということの方が、問題なんです。
D アメリカの文化政策をまねしてきて、市村さんがご指摘になりましたように、アートを生かそうとする。アートを手段として使った政策は、日本でも外国でも大はやりで、たぶんロットとしてはそちらがまず大きくなることは間違いない。
それはそれでいいと思うのですが、もう一つのアートは道具ではなくそれ自体が目的ですと、3番目に書かれている何が高度なのかというのは、非常に関連があると思いますが、実はアメリカでもごく普通の文化政策というのは、60年代でほぼ崩壊いたしまして、70年代以降また別な方向をたどっているんですが、あれだけアメリカのようにマーケット・オリエンテッドで商業化されたアートというのが大手を振っている社会において、実験的なものをするとか、正しいものを目指すためチャレンジをするということの持っている意義というのは、アメリカ連邦政府の政策の中でも、一応守られてきているんです。1980年代にレーガン政権が登場して文化予算が決められたことがある。実はゼロにしろという議論もあったんです。