そこまでたどってみると、文化政策というのは、結構歴史的なたどりをして、もう一度見直しをするという形をとらなければいけない。
それでは伝統芸では何を見るかというと、演出や物語を見ているわけではないんです。すべて芸を見ているのです。それはバレエも同じで、どのくらいジャンプをしたかとか、回転がうまい。あるいは歌舞伎でいうと、物語や演出は見ていないんです。この人はどういう六方を踏んだとか、そういうものを見ている。それで、歌舞伎に演出という概念はない。オペラにも文楽にも演出は本来的にはないものです。
伝統芸というのは、一人一人の芸を見るという見方をするわけです。それが正しいかどうかは別だけれど、その見方というのは大正時代に発展をストップさせたというところから、必然的にそういう見方が生まれるのじゃないかと僕は思っているのです。これもまだ論証されているわけではないのですけれど、そうだと思います。われわれの見方自身が明治以降の流れに相当狂わされているというように考えた方がいいと思います。
しかし、コンテンポラリーというのはそういう見方をしません。演出があって、脚本があって、あるいは絵をかいてもそうですが、われわれの見方というのは、確かに感動すればいいのかもしれないけれど、さっき言ったように、これは何を解決したんだというところで見たいと思います。どんなにうまくやっても、カラオケでうまいのと同じだよ。それはまねしたものだからです。
もちろん、メソッド的にはほとんど変わっていない。しかし、習熟することによって相当よくなったということも一つの発展ですからいいんですが、本当に変えるためには、大変な天才が出ない限り変えられないのです。
というようなアートの流れは正当に検証できます。ですから、文化政策というものを考える場合、そういう検証をした上に立って政策を立てていかないといけないんです。というのは、好きに感じていいよとか、客観性がないようにアートは思われがちですが、極めて厳密に評価できるものだということだと思います。
まずやらなければいけないのは、日本のアートのシステムの中で欠けているものを全部挙げていって、どういうアイテムが必要か知ることです。
例えば、何をどう見るべきかという教育は日本では行われていません。見る目を持った人をどうやったら養えるのか。そういう人をつくっていないから、今いろんな公共ホールをつくったときに、プログラムをよくすることができないのです。