そのころから、国連はデクレアルのときに、これ以上続けると分からなくなるというので、決議案はポルトガル政府が出しているんです。ポルトガル政府もその決議案をやめようといって、やめる。といって、インドネシアだって、勝つ自信はないから、あれは自分の国だとは言えないわけです。結局、国連事務総長が仲介に立って、インドネシアとポルトガルの両政府の代表との間で話し合いをして、物事を決めていこうということになったんです。それが今までずっと続いていたんです。
僕は、その話し合いの中に現地の東ティモールの代表を入れていなかったということが、一番の問題だと思います。東ティモールの人々にとってみれば、何よりも独立を望んでいたわけです。「死か祖国か」というテイトン語の言い回しがあるんですが、ものすごく独立を望んでいましたから、ずっと運動が続いていて、今回のことになったわけです。
途中いろいろあるんですが、その中で一番大きいのは、皆さんも覚えていると思いますが、91年のサンタクルーズの大事件です。サンタクルーズというのは、サンタクルーズ墓地というのがありますが、日本は、死後一週間後だけど、向こうは2週間目にみんなでお参りするんです。それが、デリーの教会に集まっていた人を青年が、軍隊が教会に入って、連れ出して殺しちゃったんです。それで、デリーの民衆は怒って、サンタクルーズのお墓にものすごい数の人が集まって、墓地に行くんです。それに向かってインドネシアの軍隊が発砲した。何人殺したか、大体200人か、全然分からない。それがサンタクルーズ事件で、大きな問題になりました。
それから、1975年に侵略して、76年、77年、78年という3年間で、大掃討作戦というのをやるんです。そのときに殺された人間が大体20万人と言われている。これは、あるアメリカの情報センターの発表によれば、戦後で殺された人間の数でいえば、ポルポト政権によるカンボジアが一番。あれは150万人ぐらい殺しています。ただ、殺戮率で言ったら東ティモールが一番多い。3分の1。60万の人口のうち20万人、つまり3人に1人は殺している。すべての家族で殺されていない家族はほとんどいないと言われたぐらいです。そのぐらいすごいことがずっと続いてきて、ここまできてしまいました。
今度の独立運動は1999年です。その間に今度釈放されましたけど、シャナナ・グスマオーという、ずっとフレティリンの一番親分です。それが逮捕されて、牢屋に入れられたり、いろんなことがあったんですが、僕は、そのときにペロ司教とか、ラモスホルターという人を日本に2回ぐらい僕は呼んでいるので、来ていますけど、ノーベル平和賞にずいぶん推薦してきた人。