チトーが、クロアチア出身だったわけですけれども、戦後、ユーゴを統一して、社会主義あるいは自主管理、非同盟という独自路線の下で、ユーゴを安定させたわけです。当時、旧ユーゴを語る言葉として、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家というスローガンがありました。これだけの多民族が共存できる、融和できるというのが、旧ユーゴの誇りでもあったわけです。3つの宗教は、カトリック、セルビア正教、イスラム、2つの文字は、ラテン文字、キリル文字を指します。
むしろ、民族を混住させて、あるいはパルチザン以来の伝統で、各地に武器も分散して置いておく。あるいは、国民皆兵制度を取るということが、全て、冷戦後は裏目裏目に出てしまうわけです。
これには、いろいろな説があると思います。セルビアは大きく言うと3つに分かれます。北部のハンガリーに近いベオグラードの北にあるボイボディナという自治州、セルビア共和国、そしてコソボと、大体3つに分かれています。74年の憲法で、この3つをほぼ同格に置くと改正されたわけです。ミロシェビッチ氏が、セルビアの大統領になってから、彼が中心となって、この自治州の自治権を大幅に縮小するという憲法改正をしました。このときに、すでにコソボではアルバニア系の人たちが反発して、独立憲法を採択したり、あるいは共和国を宣言したりという動きがあったのです。ところが、これをセルビアが押さえ付ける、こういう動きがあったときに、クロアチアとスロベニアが、91年でしたか、独立を宣言するわけです。
そのときに、92年だったと思いますが、まずドイツ、実は、ドイツの前に、バチカンが承認しています。バチカンが承認して、その直後にドイツが承認して、EC、EUが承認するという形でクロアチアとスロベニアの独立を認めているのです。当然、このときに、連邦軍とスロベニア、それからクロアチア軍の戦闘があったわけです。その後、ボスニア・ヘルツェゴビナが同じようにムスリム系多数の元で、独立を宣言して、これがきっかけとなってボスニア紛争が始まっていきました。
こういう形で、旧ユーゴは次々に解体して、残ったのはセルビアとモンテネグロの2つだけになってしまうという結果になったわけです。一応、ボスニア紛争は、NATO空爆によって和平案、デートン合意が作られるのですが、このときに、実は、コソボについて、和平のしっかりした基盤を作ることができなかったということが、今回つけになって回ってきたわけです。