この第1次バルカンで、トルコはバルカンから完全に撤退して、次いで、マケドニアをめぐって第2次バルカン戦争が始まります。そのときも、結局は、セルビアが勝ったのです。
その後も、昔の大セルビアを取り戻すんだ、あるいは、セルビアが中心となってバルカンを復興するべきだという考え方が出てきまして、そこで、1914年にボスニア・ヘルツェゴビナを統合したハプスブルグのフェルディナンドというオーストリアの皇太子夫妻が閲兵のためにサラエボに来たときに、それに対してセルビアの青年が銃弾を浴びせる。この暗殺が第1次世界大戦のきっかけになったわけです。この日がちょうど14世紀のコソボの戦いがあったその日、旧暦で言うと6月15日です。この日がたまたま重なったというのではなくて、セルビアにとってそれぐらい、民族主義の核となる大きな意味を持つ日であったということが言えると思います。
1989年に、ちょうどコソボの戦いから600年後に、ミロシェビッチ氏がコソボを訪ねます。コソボポーリエはコソボヶ原という意味で、コソは鳥のツグミを意味するセルビア語らしいです。言ってみれば、ツグミヶ原の古戦場に行って、演説をするわけです。そのときに、セルビアはコソボの少数派になっている。しかし、ここは本来、セルビアの揺らんの地である、セルビアはコソボを取り戻すべきだという演説をするわけです。当時、9割近くのアルバニア系に囲まれて、セルビア人は少数派として不利益を被っているという意識が非常に強かったものですから、このミロシェビッチ氏の演説に皆賛成するわけです。彼が、だんだん力を発揮していく重要なステップは、コソボであったと言えると思います。
その後、どうなったかと言いますと、第1次大戦の後、アルバニアは独立したのですが、結果的にコソボはセルビアに属するようになりました。つまりアルバニア系が多数だったにもかかわらず、国家としては、当時、非常に大きな勢力になりつつあったセルビアに吸収される形になるわけです。
第2次世界大戦で、イタリアがアルバニアを保護下に置いた。そのときに、コソボでアルバニア人によるセルビア人の虐殺がありました。同じように、クロアチアでは、ナチス・ドイツの傀儡ウスターシャが政権を作って、ここでもセルビア人を虐殺したわけです。もちろん、セルビア側でも民族主義があって、虐殺がありました。このように、旧ユーゴの中では、戦前あるいは戦時中から、互いに民族浄化をするという殺戮の歴史があったわけです。このことを抜きにして、その後、91年以降に起きたことを語るのは難しいだろうと思います。