日本財団 図書館


コソボの赤で横線が引いてあるプリシュティナが、コソボの州都です。人口20万人ぐらいと言われています。この郊外にコソボ・ポーリエと呼ばれる小さな盆地というか、平地があります。ここは有名な古戦場です。ここで14世紀、1389年6月15日に、戦史に残る有名なコソボの戦いという決戦がありました。当時、ここは中世セルビアの王国の中心地で、セルビア正教の修道院も置かれている、中世セルビア王国の最も重要な揺らんの地と言われていたわけです。ここで、当時、オスマントルコがバルカンに侵攻してきて、ラザール侯と呼ばれるセルビア率いる連合軍が決戦をしたわけです。相手のオスマントルコの指導者は倒れましたが、バルカンの連合軍は破れて、オスマントルコの支配が確立したと言われる重要な戦地だったのです。

セルビアの人たちは、それ以降、当時のコソボの戦いの叙事詩を口承の形で吟遊詩人が伝えていきました。日本で言えば、ちょうど平家物語みたいなものだと思います。今でも小学校でコソボの戦いの中から、ラザール侯の呪いとか、もしコソボの戦いに参加しなければ、おまえは全て失うであろうという、決戦を呼び掛ける詩もありまして、そういうのを暗唱させられて、覚えているのです。そういうふうに、ここは民族が異民族に屈した屈辱の場であると同時に、アイデンティティーを呼び覚ます場でもあったわけです。

なぜ、ここにアルバニア人が、今、多数派となったのか。これはかなり曖昧な数字だと思いますけれども、人口200万のうち、1割がセルビア人で、残りの9割が、圧倒的多数がアルバニア人。後は、ロマの人々とか、昔ジプシーと呼ばれていた人たちも少数派としてはいますけれども、圧倒的な多数はアルバニア系です。なぜこういう人口構成になったかと言いますと、17世紀から18世紀にかけて、ここにいたセルビア人がボスニアの方面に移住します。これにはいろいろな理由があります。ハプスブルグとの軍事境界地帯がボスニアにありまして、そちらに向けて、一種の防人のような形でセルビア人が移り住んで、そこに入ってきたのがイスラム教に改宗したアルバニアの人たちだったわけです。そのときに民族構成が変わって以来、アルバニア系の人がだんだん増えていくという状況になりました。

ところが、バルカン全体がそうだったわけですけれども、19世紀の終わりからセルビアの民族主義がこの辺り一帯で噴出してきます。オスマントルコが衰退する、第1次バルカン戦争が起きて、セルビアが先頭を切ってオスマントルコに宣戦を布告するわけです。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION