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前者の戦略については、もう皆さんここにお見えの方はご専門でありますので、釈迦に説法になるんであまりぐだぐだ申し上げるつもりはないんですが、後者の安心戦略については耳慣れない用語だと思いますので、また後で詳しく述べさせていただきます。特に今の日本に欠落しているのはこの部分だと思いますので、この両輪のバランスをどうとるかという話を最後にさせていただきたいと思います。

まず、抑止戦略。戦後の日本の国防政策は、言うまでもなく、必要最小限の自国の防衛努力と日米安保体制によって脅威を事前に抑止するということを基本にしてまいりました。日本は米国の占領から主権を回復して、69年のニクソンショックまで、大ざっぱな話ですけれども、事実上米国の保護下にありました。しかし、1969年7月にニクソン・ドクトリンが発表されてから、いわゆる「グァム・ドクトリン」ですね、国内的な安全、軍事的な防衛については、日本を含むアジア諸国が自ら責任をとるようにということで、アメリカが一斉にアジアから引く兆しをみせました。それ以来、70年代初頭に防衛庁長官になりました中曽根さんの言葉にあるように、「日本は外敵の侵入に対しては自らの努力で守ると同時に、日米安保条約を有効に機能させて、自国の安全保障を図っていく」とこういう政策に転換をして、爾来20数年が経っているわけです。

これを私流に解釈すると、日本の担当はもっぱら国防政策である。国土の防衛に徹します。いろいろ憲法の制約もありますので、核抑止を含む総合的な、包括的な、安全保障政策については、挙げてアメリカに委ねる、こういう構図をずっと維持してきました。だから結論を先に申し上げますと、こうしたアンバランスな現状を少しでも是正しようということを目標にして、1995、96年に始まったのが「日米同盟の再定義」であり、96年4月の日米安保新宣言、そして97年9月のガイドラインの策定だったのだろうと思います。つまり、日本有事に備えた国防政策だけでなく、総合的な地域の安全保障策の面でも日米の役割分担をはっきりさせようというのが、ガイドラインの画期的な意義の一つだろうと私は考えます。

もちろん、日本が、戦後ずっと安保戦略をアメリカに「丸投げ」だったというのは、戦争と平和に関する日本国内の議論がまだ成熟していなかった、あるいは政治状況が複雑だった、そういう事実を反映したものであることは紛れもない事実であります。従って、1969年に佐藤栄作首相とニクソン大統領との間で交わされた共同コミュニケ(これは最終的には沖縄返還につながっていくんですが)は、朝鮮半島と台湾海峡の安全について、これは日本の国益には重大な影響を及ぼすものであるということを日米の間で合意したとうたったのですが、その後の日本の政策はこのコミュニケの内容をできる限り無視し続けるわけです。

 

 

 

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