最近の日本の安全保障政策とかけて、山本リンダのヒット曲ととく。その心は、「もうどうにも止まらない」。
昨年の8月に北朝鮮のテポドン弾道ミサイルの発射実験が行われました。ミサイルの一部が日本上空を飛び越えたというので、日本のマスコミが大騒ぎをして、政治家も相当緊張していろいろな議論を国会で始めました。しかし、そこで出てきた議論というのは、例えば、偵察衛星の自主開発をするとか、アジアの先制攻撃は憲法上できるんだとか、これにはご承知のとおり直ちに韓国側の国防大臣が反論いたしまして、そんなことは日本はユニラテラル(一方的)にやってもらっては困る、というような激しい拒否反応が出されました。
何を言いたいかというと、非常に危なっかしい、危うい議論が平気で行われているという印象を持つのです。実際、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズ、それからアジアではファー・イースタン・エコノミック・リヴューなどといった主要メディアが、特集を組んで、日本は一体何を考えているんだろうかと疑問を呈しています。最近のワシントン・ポストの記事によると、「ガイドラインの議論を利用して、日本は自国のミリタリー・マッスルをエキスパンドをしようとしている」と。これは周辺国が常々日本に対して向けてきた疑いの表現だと思うんですけれども、いよいよ同盟国からもそういう議論が出始めてきたということは、私は看過できないことだろうと思っています。
最大の原因は何かというと、こういった政策変化のプロセスが非常に見えにくいということだと思うんですね。いかにも状況対応的だと。要するに戦後何十年もやれなかった宿題を片付ける環境ができたので、一気にやってしまおうと。そういう環境に「便乗」して、ことを進めていこうというきらいがある。もちろん民主主義国家ですから、今まで国民の意思あるいは気分によって制約を受けてきたものが、一つ一つはずされていけばそれだけ物事が進んでいくということも仕方がないだろう、というのは恐らく防衛政策担当者の本音だと思うんですが、外から見るとやはり日本は別に意図があって、状況の変化に乗じて実現しようとしていると映ってしまうわけですね。
こういう状況を私なりに結論づけるとすれば、いま日本で行われているのは安全保障政策の議論ではなくて、危機管理とか、あるいは国防政策といった議論にとどまっているんではないかというふうに思います。くしくも、自民党のなかに最近つくられた研究会が「危機管理プロジェクトチーム」なんですね。決して安全保障政策を見直そうというプロジェクトチームではないんです。