宮川先生が学術会議に対してそのアカウンタビリティを問うということでの裁判をなさっていらっしゃいます。私はホームページで見た限りにおいて、学術振興会においても、いかに研究費の配分をしたかということに関してのアカウンタビリティがやはり非常に問題だと思いました。一体、だれがどうしてこういう研究の選択をしているのかということも含めて、学者とか研究者にとっても最もアカウンタビリティが必要です。もちろん、科学の中身に関して、もしかしたら産業との関係で見えなくしなければならない部分があるのかもしれないけれども、一体お金がどういう形でつけられて、どういう形で研究の成果が出されているのかということは、我々の税金の使われ方としてもっときちんと国民がチェックしていかなければならないだろうと思います。
D オブザーバーとして参加させていただきました東京大学の法学部のDと申します。一般に日米の民主主義の違いについて、その成果面における議論というのは非常によくなされていると思うのです。興味があるのは、アメリカの市民レベルにおける自治の意識というものがどういうものであるかということで、上野さんにお聞きしたいのです。というのは、昨日統一地方選があったわけですが、投票率が50%を切ったりしているわけです。そういうものをアメリカと比較してどうなのかということと、それから、最近「市民」という言葉が氾濫しておりまして、市民政党とか市民大学があるのですけれども、そもそも日本に市民というものがいるのかとか、それから、ここにいる皆さん1人1人違うと思うのですが、市民というものの定義をどう考えていくのかということをちょっとお聞きしたいのですが。
上野 市民という問題は確かに茫漠としていて、アメリカに市民がいて日本に市民がいないのかというような議論や定義というのは、それをやっていらっしゃる学者の方もいらっしゃるからそれはそれとして、私としては、市民というのは育つものだと思っているわけです。育つものだというか、自分は市民であると、市民としての責任で私は市民であると思う人間は市民だと思っているわけです。何が違うか。アメリカで何が違うか。一つ、例えば、レーガンが大統領を辞めたときに、最初に言ったことは、「私はこれからワン・プライベート・シチズン(one private citizen、一市民)になるということがものすごくうれしい。そこに戻れることが誇りだ」ということだったのです。「プレジデントというオフィシャルな立場というものは、それはそれなりにすばらしかった。