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冷戦後、地域主義の胎動というものがあらゆる面で目立ってきているわけですが、オタワ・プロセスでもこの潮流が大きな力となりました。具体的にはEU(欧州連合)やOAU(アフリカ統一機構)といったものが、全面禁止を打ち出しました。その結果、条約加盟国を広げるうえで非常に大きな役割を果たしたわけです。

EUは対人地雷全面禁止条約が採択されるまでに、「共同行動」をとっています。第1回目は対人地雷輸出の一部凍結で、95年の5月のことでした。そして第2回目は96年の10月。先ほど来申し上げているまさしくオタワで会議があったときですが、そのときには対人地雷の全面禁止条約を実現させるということを支持したわけであります。

97年5月、イギリス総選挙の結果、労働党のブレア政権が誕生しました。労働党は、オタワ・プロセスを支持するということを選挙前から公約に掲げていたために、ブレア政権は当然、オタワ・プロセス支持を表明しました。この決断はドーバー海峡を越えてフランスの政策をも変えることになったと言えます。EUのなかでの孤立を恐れたフランスは、イギリスが参加を決めたことで、自分たちもこれ以上抵抗しきれないとオタワ・プロセスに参加を決めました。これは、オタワ・プロセスそのものにとって非常に大きな重みを持つものでした。と申し上げるのも、オタワ・プロセスを支持する国が徐々に増えていったというのは事実ですが、安保理の常任理事国である5カ国、すなわち世界のビッグパワーといわれている国々は、当初そろってオタワ・プロセスヘの参加を拒んでいたからです。

そうした流れのなかでイギリス、そしてフランスが参加を決定し、オタワ・プロセスの対人地雷全面禁止条約に署名し、そして批准したということは、オタワ・プロセスが国連の枠外で進んできたというなかでも、非常に正統性を与える大きな要因だったというふうに言えると思います。その背景にあったものは、この6つ目の特徴として挙げた地域的な連携ということが非常に大きかったわけであります。

7つ目の特徴としましては、代替手段が存在していた、もしくはその存在を認めたという点にあります。対人地雷全面禁止条約というものは、その見方によっては軍縮条約ではなかったわけであります。と申しますのも対人地雷廃絶のためには、その代替手段の導入にコストがかかったり、その手段によって軍拡が進むことも事実上容認してきたからであります。

これは日本もそうです。日本政府が条約に署名、批准した結果、日本が条約の第7条にのっとって、保有している地雷をすべて廃棄しなければいけない。

 

 

 

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