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アメリカに行くととてもおいしいお米がありますが、あれは明治以来日本人の農民が出稼ぎに行って、日本の稲の元種を持って行って開発したカリフォルニア米です。日本のヤポニカ種はとてもおいしい。それで人々はいままでの飢えの生活からちゃんと計画的に生産が可能である稲作のほうに走りました。また鳥や動物を追いかけて移動するよりは、定着して稲の栽培に当たったほうが食糧が計画的に手に入る。秋になれば必ず実りの秋を迎えるということで、稲作が日本に定着することになりました。

5世紀のころ、仁徳天皇が詠まれた歌が、私どもの時代は教科書に載っていましたが、「民のかまどは賑わいにけり。」と国民のどの家からも煙が立ち上っている。煙が立ち上るというのはご飯を炊く煙が立ち上っていたことで非常に満足して喜ばれた歌ですが、それは取りも直さずいままでの飢餓と背中合わせの生活だったのが稲の定着によって国民の生活が非常に豊かになった。そういう証しの御製でもあると私は解釈して読んでいます。

それが江戸時代に入ると、徳川幕府が政策として石高制といった世界でもまれなる米による給与体制をつくり上げました。各藩は自分の給与を増やそうと思って自分の土地の米の生産に一生懸命励み、国土開発にこぞって力を注ぎました。それで米は大変格段に生産が伸びましたが、そのころのお百姓は大変虐げられていました。

徳川家康は幕府を開くに当たって、まず階級制度をつくりましたが、農民に対しては生かさぬように殺さぬようにという主義を各藩の大名に押しつけました。農民は米を食うべからずと、生産者であるのにそのように言って、正月と晴れの日だけには米を食べてもよいが、ほかのときには雑穀を食えということで奨励してきました。

絹の着物を着てもいけない、木綿の着物を着て、昼は労働をし、汗水を垂らして田を耕し、雑草を取り、夜は家に帰って縄をない、わらじを編み、俵をつくるなどをして農作物の生産に励む。そしてたばこも火事になって米が燃え出したら大変だから呑んではいけないと、いまでは信じられないような苛酷な生活を強いていました。

その農民たちの苦しい生活のお陰で江戸文化は華やかに花が開き、ことに食文化に至っては初めて江戸時代に外食産業というものもできました。日本の食文化は一般の町民とか庶民の中から起こった食文化で、それを殿様方が「ほお、これはうまいものじゃ」と思って喜んで食べたと、そういう庶民が開発した食文化です。他のいろいろな文化も絵画にしても芸能にしてもすべて庶民がしっかり台頭した江戸文化でした。それはみんな農民の陰の苦しい生活の土台の上に立っていました。

そして近代に入り、明治時代の日清・日露の戦争を過ぎて、今度は大東亜戦争に突入し、遂に1945年、日本がアメリカに降伏をしました。そして外地から大勢の引き揚げ者が続々と帰ってきましたが、その引き揚げ者が持ち運んだものは、ご記憶にある方もおありと思いますが、ノミとシラミとダニです。そして日本中にそれらが蔓延しました。

 

 

 

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