3 ドイツの動向
ドイツでは、1998年の選挙で、長く政権を担当していたキリスト教民主同盟が、選挙に負けた。コール前首相が退任し、代りに社会民主党政権が誕生した。社会民主党は緑の党と連立を組んで与党になった。コール前首相は年金に関しては、1999年年金改革法を選挙前に成立させたが、実施が99年であったため99年と名前がついているものの、実質的には97年の12月に連邦議会で可決している。
ドイツにおいては、コール政権時代に既に将来の高齢化を念頭に置いており、今のままでは年金を維持できないので調整が必要で、その柱は、給付水準を下げるということであった。将来の年金受給者はもっと長生きするので、支給開始年齢を調整しないと受給期間が長くなり、当然それが年金財政を膨らませる要因となる。年金財政が余り膨らまないように年金給付を下げたい。平均余命が伸びた分の支出を半分ぐらいに削りたい。
端的に言えば、人口要素(Demographic Factor)というものを新たに導入して、平均余命が伸びたら、伸びた部分の半分相当を年金給付減額に回し、後の半分は現役の人達に負担してもらうという調整法である。これは当時、キリスト教民主同盟が多数派であったので、社会民主党の強い反対があったにも関わらず成立した。
社会民主党は人口要因を導入して、平均余命が長くなったら年金月額を減らすという提案には反対した。
ドイツのモデル年金というのは、現役の人達の手取りの月収に対する割合額として支給額を決定するのがドイツの基本的な考えである。コール改革によると将来的にその割合は64%(現在は約7割)まで落ちるが、このラインまで年金給付をカットするということを、多数派の力を借りて押し切って通した。社会民主党は猛反対をしたが、数が少なかったので可決された。しかし、それが、前回の選挙の争点になり、結果的にキリスト教民主同盟が敗北した。
社会民主党は緑の党と連立を組んだ直後に、声明を発表し、99年から実施する予定の年金改革法の執行をとりあえず、2年間サスペンドする、新しい法律は99年からスタートする話しであったものが、2年間実施を遅らせる。代りに、2年間の間にキリスト教民主同盟とは異なる社会民主党独自の改革案を用意し、新しい案を作って国民に問い掛け、それを通して将来の形を調整したいというのが最初のアナウンスメントであった。