関西大学時代はレギュラーにこそなれなかったものの、ベンチ入りを果たし(二五人枠)、大学選手権での優勝も経験。そんな野球一筋の青春時代を過ごした山名さんが、「高校野球の審判をやらないか」と誘われたのは、二一年前のこと。当時から、野球部時代の先輩に頼まれ、母校の練習試合などで審判をしていた経験を買われてのことだった。
「最初は、休みの日だけでいいからと言われて、それならば、ちょっとぐらい手伝ってもいいかなと。ところがだんだん、深みにはまってしまい、休みの日はもちろんのこと、平日も駆り出されるようになってしまいましてね。おかげで、家族サービスもままならず、雨が降って試合が中止になったときしか子供たちとも遊んでやれませんでした。晴れた日に、息子に"動物園に行こう"と声をかけたところ、いつものように長靴を履き、傘を持って出かけようとしたこともあったくらいで(笑)」
こうして、一九七九年に大阪府の地方大会での審判を担当したのを皮切りに、審判にとっても憧れの地である甲子園大会も八七年から担当。現在も、年間四〇試合ほどの審判をしている。
山名さんによれば、「はまって」しまった理由のひとつは、審判技術の奥深さにあるという。
「見たままアウト・セーフ、ストライク・ボールを言えばいいんだから、簡単なものと思われるかもしれませんが、たとえば、一塁走者が二塁に盗塁したときは、走者がどういう滑り方をしてくるか、キャッチャーがどこに球を投げてくるか、野手がどんなタッチをしてくるかといったことを瞬時に判断して、見る位置を変えなければならない。また、試台は球審、一、二、三塁の塁審の四人で運営をしていますが、打球の飛んだ方向によっては、塁審が一塁にカバーに走るといった連携の動きもあるので、何年やってもなかなか技術が極められないんですよ」と真剣なまなざし。
野球少年だったころそのままの、熱いハートを持った人なのである。