やがて、生きがいを求めて車イステニスをはじめ、車イスマラソンにも挑戦。毎朝五時に起き、二〇キロを走るという練習が報われ、北海道ハーフマラソンでは完走を、大分のハーフマラソンでは、転倒し、血を流しながらも、優勝を勝ち取った。
そんな健気な智子さんの姿をいつもそばで見守っていた仲間の一人といつしか恋に落ち、一九九六年六月、二六歳の智子さんは、憧れのジューン・ブライドとなった。
「こんな体になった時、もう、結婚はできないとあきらめたんですが、"一緒に生きていこう"と言ってくれて…。彼も障害を持っていたので、二人で住みやすい家を建て、共通の趣味を持とうと車イスダンスも習いはじめました」
結婚して初めてのクリスマスを前にして、待望の妊娠。だが、脊髄損傷者の妊娠・出産は命を落とす危険さえあり、それゆえ、長野県下ではもちろん、全国でもほとんど例がなく、医師からはあきらめるように諭されてしまう。それでも、智子さんの決心は固かった。
「私がどうなろうと、絶対に産みたいんです!」
実際、妊娠週数が進むにつれ、激しいけいれんや呼吸困難などの症状を起こし、最後には意識を失って三三週で帝王切開となるなど、文字通り命がけの出産となったが、智子さんのがんばりは報われた。一七九〇グラムの男の子だった。
「出産から三日目にしてようやく会えたわが子は、かわいそうなくらい小さな体で、しかも体中にたくさんのチューブが走り、人工呼吸器も付けられていました。それでも抱っこをして、"コーちゃん、お母さんだよ、わかる?"と呼びかけると、その瞬間、小さなおめめをパッチリ開けてくれて……。うれしくて、うれしくて、涙が止まりませんでした」
だが、幸せな日々は長くは続かなかった。
実家で産後の体が回復するのを待ち、これからはじまる親子三人の生活に希望で胸を膨らませていた智子さんに、突然、夫が信じられないような言葉を投げつけたのだ。
「重荷で仕方がないから別れてくれ……」
「わが耳を疑いました。二人でよく話し合った末の出産だったはずなのに、同じ障害者という立場でお互いを理解してきたつもりだったのに、なぜなのと。