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- Baseball Forever -

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プロゴルファー

−秋本 祐作<元・巨人>

 

58年13連勝を記録し、この年14勝4敗で勝率1位を獲得。華々しい球歴を持った男が、80年45歳でバットをクラブに持ち代えた。プロゴルファーとしての再スタートである。

現在もインストラクター、テレビ解説者として活躍中の秋本氏だが、昨年からOBクラブを後援につけた個人主催チャリティーゴルフコンペを開催している。

「ゴルフは、野球と必ず通じるものがあり、プレー中も野球談義に華が咲く事もしばしば。OBクラブでも各地でこのようなイベントを開催しクラブのPRと地域貢献をしてはどうだろうか」とOBクラブにエールを贈る。

尚、今回のオークションでは、512,000円の収益があり、当日全額「宝塚市社会福祉協議会」にそのまま寄付されたとのこと。

 

プロフィール

秋本祐作

・1935年 神奈川県生まれ

・1956年 阪急〜広島〜巨人を渡り歩き、73年引退。

・1980年 ブロゴルファーとして再スタート。

・1998年よりチャリティーコンペを開催。

 

ギヤマン彫刻絵画創始者

−梶原 彰<元・西鉄>(号・木内宗吾)

 

「ギヤマン彫刻絵画」-。美術に興味ある人でなければそれが一体どういうものなのかイメージを湧かせることは難しい。

約400年前からヨーロッパに伝わるガラスをダイヤモンドペンで刻む技法「ギヤマン彫刻」にヒントを得、厚さ5ミリのガラスに線や点を刻み裏面に和紙を張り合わせるというもの。独特の立体感が出て趣がある。

世界に類をみないこの技法を創設し、国内はもちろん芸術の都パリでも賞賛を浴びている木内宗吾という画家。本名・梶谷彰。稲尾和久と同期入団の西鉄ライオンズのキャッチャーだった。在籍1年、一軍出場なし。

退団後、三原監督の紹介で勤めた会社で順調にエリートコースを歩むも、あと一歩のところで会社が倒産。その後装飾ガラスの会社を自ら興すが、やがてそこからも手を引きデザイナーとしての再々スタート。5年という歳月をかけて「ギヤマン彫刻絵画」を創設した。

「ここまでこれたのは野球でどん底をみたお陰かも知れない」

今年も各地で精力的に個展を開く彼の人生は65歳にして今最も輝いている。

5月26日〜31日まで新宿のデパートで開かれた個展では、大先輩にあたる青バットの故・大下弘さんの肖像画を披露した。

 

プロフィール

梶原彰

・1934年 東京生まれ

・1952年 福岡県立築上中学校〜神奈川大学〜西鉄ライオンズへ入団。

サラリーマン、ガラスデザイナーを経て絵画の道へ転身。

創作美術「ギヤマン彫刻絵画」を完成。

・1996年 パリにて個展を開く

 

INFORMATION

OBクラブでは、少年少女野球教室、オールスターゲームなどの各種イベント、講演会を随時受付中!

全国各地どこへでも参上します。興味を持たれた方はパンフレットを是非お取り寄せ下さい。

費用面から開催の手配まで、ご相談に応じさせて頂きます。

また「こんなことはやってくれるかナ…?」という上記以外のご依頼でもまずはOBクラブへお尋ね下さい。

たくさんのお問い合わせをお待ちしています。

 

BASEBALL LEGEND

第3回「テールエンドのコンプレックス解消に燃えて…」

〜千葉 茂〜

 

「体が動かないので今日限り辞めさせてもらいます」

昭和31年夏、甲子園球場での阪神戦を終え、千葉は水原監督へ直訴した。松山商業を卒業して19年、38歳となった体は、暑い夏を超せなくなっていた。

国鉄のエース金田正一の右打者の膝元へくい込む速球そして、大洋のサブマリン秋山登の外角へ逃げるストレートをミートに定評のある千葉がファウルすらできない現実がそこにあった。「疲れたなあ。もういいだろ」センチメンタルな気持ちではなかった。

ジャイアンツのコーチ、二軍監督を経て新転地大阪へ。万年最下位、パ・リーグのお荷物とまで言われる近鉄の監督として新たな一歩を踏み出す。

就任が決まってすぐ、球団名を「パールズ」から「バファロー」に変えた。もちろん千葉のニックネーム「猛牛」にちなんだものだ。公募を行ったところ、ファンからの要望が最も強かったという。球団名の変更に伴い、球団マークの作成にも取り組んだ。依頼先は大阪万博「太陽の塔」で名高い芸術家、岡本太郎氏。野球好きの岡本氏とは銀座での飲み仲間だった。「なんとかマークを描いてくれないか」と頼み込みわずか10万円で引き受けてもらった。仕上がったものは、鋭い角と丸い目を持った猛牛の顔。そう現在も親しまれているあのマークである。

「だんだん、だんだん良くなるなあ」今近鉄のユニフォームを見つめながら誇らしげに笑う。

慣れ親しんだジャイアンツのユニフォームに別れを告げ、「近鉄のこどもになる為に来た」就任の挨拶でそう語った千葉は最後3年間、チームヘのプロ意識の浸透に奮闘することとなる。

当時の近鉄の選手は、闘争本能もプロとしての誇りも欠落したコンプレックスのかたまりだった。それを象徴する一つのエピソードがある。昭和34年5月30日、駒沢球場での対東映戦。東映のランナー山本八郎が、キャッチャー加藤を目がけて猛タックル。本塁上で揉み合いとなった。ところが近鉄ベンチから飛び出す者は一人としていない。「なんたることだ」千葉は思わず「いけー!やっちまえ!」と叫んでいた。監督自らが暴言を叶いたとして戒告処分-。「元気が欲しかった。それが近鉄へ来た使命だった」

体質改善のために、チームの指針、内務規定を定め、プロとしての在り方を説いて回った。グラウンド外での交渉の方が大変だったというのだから、今で言うGMの役割も担っていたことになる。移動の汽車を3等から2等へ。キャンプ費用をジャイアンツへ近いものに。さらに、賞罰制度と-。

近鉄は、千葉を迎えるまでアマチュア出身者を指揮官に迎えていた。「いくらノックバットで選手を鍛えても知れてる。プロ野球は金の延棒で強なるんだ。アマチュアは安く仕入れて高く売るが、プロは高く仕入れてより高く売る。大阪だけのチームではダメだ。もっと日本的な存在にならないといかん」テールエンドのコンプレックス解消に燃えて、バットも体もボロボロになる3年間だったと振り返る。

千葉は、それ以来どこの球団のユニフォームも着ていない。「あれではBuffalowというよりCowだ」厳しい口調で語る胸のうちには自分が監督となった当時、ファンが望んでつけてくれた「バファロー」というチーム名と「覇気と躍動感のあるイメージアップを」と岡本氏が作ってくれた球団マークヘの愛着と淋しさが漂っている。

 

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