日本財団 図書館


のりくら御幣の運動性

以上で明らかなように、「のりくら御幣」は、たとえば高田の王子幣や山の神幣などのような固有の精霊の形象ではなく、「のりくら」・「依代」という御幣の働きそのものを体現していた。

もちろん、先に見た奥三河・病人祈祷祭文の御幣も悪霊を憑依させるのりくら御幣だし、いざなぎ流でも御子神取り上げ以外のさまざまな祈祷の場面に「のりくら御幣」(という名称)を見出すことができる(注15])。要するに「のりくら」とは、御幣の基本的役割を表す普通名詞なのだ。いや、せんじ詰めれば、あらゆる御幣は、すべからくのりくら御幣というべきだろう。

けれども、こと神霊の移動という側面に焦点を絞れば、大いなる懸隔が生じてくる。たとえば、病人祈祷では、眼前の病人の体からヨリマシの御幣までのわずかな転移でしかない。だが、塚起こしでは、墓地から家までという、時には数キロにも及ぶ霊の運搬が行なわれている。のりくら=乗鞍という言葉は、象徴にとどまるものではなく、ある地点(位相)からある地点(位相)への神霊の運動性を見事に体現していたわけだ。もちろんそれは、神霊の自律性にではなく、太夫の祈祷の力にあまねく委ねられているのだが。

神霊をいかにして動座させるか。しかもそれを、いかにして視覚的なものになしうるか、(のりくら)御幣という形象を手に入れたことで、神霊は一挙にその運動性を拡大させることができた。

巨視的にみれば、そもそも祭とは神霊の動座を中心として構成されているということもできよう。そこで最後に中国地方の海辺へと視座を移し、別の角度から御幣の動態学を探ることにしたい。

 

◎V 変容する御幣――青柴垣神事の奉幣鉾をめぐって◎

美保神社と青柴垣神事

島根半島の東端に位置する島根県八束郡美保関町(やつかぐんみほのせきちょう)。『出雲国風土記』の国引き神話は、能登半島から地塊を引き寄せ、縫い合わせてできた国が「三穂の崎」と伝えている。この美保関は、悲劇的色彩を帯びた国譲り神話の舞台としても名高い。

天孫降臨に先立ち、葦原中国(あしのはらのなかつくに)を平定すべく、タカミムスヒは次々に高天原から神々を遣わすが、容易には平定できず、最後にフツヌシとタケミカズチが派遣される。

国譲りに応じない出雲に、高天原からフツヌシとタケミカズチが派遣され、オオクニヌシに国を譲れと迫った。オオクニヌシは息子のコトシロヌシに決定させようとするが、おりしも彼は三穂の崎で釣りの真っ最中であった。そこでオオクニヌシは、熊野の諸手船(もろたぶね)に使者を乗せて遣わした。するとコトシロヌシは国譲りするように進言し、天つ神に恭順を誓ったが、海中に青柴垣(あおふしがき)を造り身を沈めた。

(『日本書記』本文)

託宣を司る神コトシロヌシは国譲り宣言をした。しかしその後、悲しみのゆえか、自責の念に駆られてか、船を青柴垣に変え、船端を傾けて海中に沈んだ。自殺したのである。

この国譲り神話を再現した祭が、一二月の諸手船神事と四月の前後一三日間にわたって行なわれる青柴垣(あおふしがき)神事(注16])で、古くから氏子たちが当屋組織を作って伝承してきた。そのうち青柴垣神事は、海に沈んだコトシロヌシの擬死・再生を復演する祭で、水葬儀礼的な性格が色濃い。

大棚飾りと神宝=幣鉾

青柴垣神事には、御幣はもちろんのこと、意匠を凝らしたたくさんの美しい祭具・神宝が調進される。それらの神宝類は、大祭の日の四月七日、美保神社下の会所に設けられた「大棚飾り」で一堂に会する。

青龍(東)・白虎(酉)・朱雀(南)・玄武(北)の四神鉾以下、さまざまな祭具・神宝を背に二人の当屋神主は小忌人(おんど)・供人(ともど)を従え、瞑目して座る。すでに人ならぬ状態となった二組の当屋一家を拝みに、町の人々が押しかけて賽銭を差し出す。コトシロヌシらに神懸かりした当屋一家は、まさに生き神(注18])として扱われているのだ。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION