さて多彩な神宝類のうち、「御幣」と銘打った祭具は、真の幣・奉幣鉾(ほうへいほこ)・金幣の三つ。(注18])「金幣」は、銅に金メッキを施したもの。柄は黒塗りで一二個作り、大棚の下段に飾る。「真の幣」は、白木で作った鉾に、桃の枝を挿した熨斗を付けたもので白幣ともいう。奉書四枚を六つ折りにして紙縒(こより)で結んだ。この真の幣は、祭で宮司を先導するため、嚮同導御幣とも呼ばれる。
「奉幣鉾」は、長さ七尺の鉾に、ウゴコ布と呼ばれる麻製の布鉾(七尺五寸)を二枚付ける。昔は、当屋で小忌人・供人を世話する老婆が、正月に一日掛かりで織ったという。この奉幣鉾こそ、御幣の動態学を考える上で注目すべき祭具なのである。
「波剪御幣」と神船の儀
午後二時頃、「御陣立て」の合図で、大棚飾りが解かれると、獅子頭・四神鉾・金幣・日像・月像・真の幣などを上番たちが捧げ持ち、行列を仕立てて、美保神社へと向かう。
やがて神社から「波剪御幣(なみきりごへい)」を容れた唐櫃が下ると、当屋たち一行は、金幣を先払いに神社から宮灘へと御幸する。そして船を二隻並べ、周囲を青柴垣で囲んだ神船へと乗り込むのである。
この乗船の儀に先立って最初に下る波剪御幣は、かつては神社随一の御幣と崇められたという。これには次のような伝承がある。
ある日沖合の島で釣りをしていたコトシロヌシは、大シケに遭遇した。そこでコトシロヌシは、船の舷を切り取って御幣を造り、舳先に立て、海上安全・災厄の消除を祈願した。
するとさしもの大波も、船の航路をあたかも切り拓いたようになり、無事に美保の浦に帰ることができた。以来この御幣は、木を割り落とした生木のままで調進する習わしという。
さて沖合での儀礼が終わると、神船は宮灘に帰ってくる。サルタヒコやアメノウズメ、田楽による出迎えの儀があり、当屋神主らと神宝類は神船を降りると、ふたたび行列を仕立てて、神社に帰殿する。
奉幣の儀
神門で最後の化粧直しをほどこされた両当屋は、いよいよ祭の締めくくりを迎える。美保神社の拝殿で、かの奉幣鉾を捧げて奉幣(ほうへい)の儀を行なうのである。
二十種を越える供物の献饌が終わると、当屋神主は拝殿に昇る。中央の四本の柱の間には板敷きが張られ、畳を敷いた奉幣の座が設けられている。そこにまず一の当屋が世話人に導かれて進む。