日本財団 図書館


多摩地方において、流行神的な性格を有しながら受容されていった養蚕信仰、それは、常州神郡豊浦湊(じょうしゅうかんごおりとようらみなと)(現茨城県つくば市)蚕影山桑林寺を拠点とする蚕影山信仰であった。

畠山豊の研究成果によっても明らかなように、近世末、多摩地方の多くの社寺は、蚕影山桑林寺から蚕影山分社の証を受け、蚕影山あるいはその本地である金色姫を祀り、急速に信仰を拡大させていく。(註1])たとえば立川市砂川の阿豆佐味(あづさみ)天神社においては、安政七年二月桑林寺より「蚕影山大権現分社之証(こかげさんだいごんげんぶんしゃのあかし)」を受け、本尊として「金色姫像」を祀ったことがわかっている。

永昌院においても状況は、きわめて類似している。永昌院が蚕影山桑林寺と関連を持ちながら蚕影山信仰の多摩地方の地方拠点となっていった契機が、所蔵される次の文書からも窺える。

 

042-1.gif

 

そして、その許可の代償として

 

042-2.gif

 

と、あるように「旅所」いわゆる蚕影山を分霊し、分社として地方の一拠点とし権限が許され、同時に「御札」を永代にわたって信者に奉授する権利を取得している。

以後、蚕影山信仰の地方拠点としての永昌院は、その祈祷寺院としての実用的な呪術的宗教機能ともあいまって多摩地方を中心に多くの人びとの信仰を集めていくのである。

さて、永昌院における蚕影山信仰の具体相の中で、その信仰をきわめて特徴づけているのが、同院に代々継承されてきた幣束である。この幣束は「金色姫蚕影山幣束」と呼ばれる。そして五色の色紙を用い養蚕の豊作祈願とともに火伏せの信仰をあわせもつことから「五色コウジンサマ」「養蚕農家のコウジンサマ」とも呼ばれている。

かつて蚕をオコサマといい、家を飼育の場としていた頃、多摩地方で養蚕の始まる五月ごろになると、永昌院の住職は各養蚕農家をまわった。蚕の無事な成長と繭の豊作祈願の祈祷をし、この幣束を切って歩いたのである。盛海氏の代になって、もっとも盛んであった頃は、多摩地方に限らず北は埼玉県久喜市、南は長野県上諏訪まで出かけたという。

一方、養蚕農家の側でも、この時節になると永昌院の住職が訪ねて来るのを心待ちにしていた。切ってもらった幣束を、イロリのそばや台所などの火所に供え、養蚕の豊作と火伏せを願った。また「火傷から子供を守るカミサマ」という信仰もあり、この幣束の傍らにゴマの枝を立ておいた。これは「子供が万一イロリに落ちたとき、ゴマの実のようにはじけてポーンと飛び出し助かるように」というものだった。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION