[連載]平遥山西省の住まいと文化3]住まいと土地神……田村廣子
農暦の一〇月一五日、満月の晩の平遥の、城壁沿いを歩いてみると、実に幻想的な風景に出会うことになる。城壁の内側は、土壁になっており、そこへ点々と穿たれた穴にぼんやりと線香の灯がともっている。街灯の少ない平遥の夜、月明かりの下、人々が線香やお札を手に集ってくる。これは、土地爺という土地神様の誕生日におこなわれる儀式のクライマックスだ。
人々が慣用句のように使う言葉に「平遥人離不開地」、直訳すれば「平遥人は土地から離れない」というものがある。平遥は、商人のまちとして有名だ。解放前(一九四九以前)には、各地に支店を持つような大商人やその従業員、物産を売り歩く個人の行商など、多くの人が商業にたずさわっていた。一九世紀中盤に誕生した中国為替業の始祖といわれる票号は、商売のために全国各地を歩く商人が現金を持ち歩く危険をなくすために考え出されたという。こうした商人たちは、商売のかたわら農地経営もおこなっていた。地主たちは、農地経営で貯えた資本で商売を始め、さらに財を増やしていった。農民は、彼らに雇用されるか、一発逆転をねらって旅に出て何年も帰れぬ行商の旅に出る。そして貯えた財産で自分の土地を持つことを夢見ていた。土地は、富の象徴だった。周辺村落出身の男が布の行商で何年もかかる旅をしながら、一山あてた。土地を買い足して地主としても成功し、さらに城内に住宅や工場を確保したという成功話がある。また、科挙で秀才まで登り詰めた文人が、私塾を開くかたわら、自分で牛馬を養い、耕作したという。
盆地に位置する平遥は、人口に対して耕地面積が少ないために商業が盛んになった。だからこそ、土地に対する愛着が大きいのだといわれる。
平遥人は土地にこだわり、そして土地を守る神々を大事にまつってきた。今回は、土地神に対する祭祀をとおして平遥の住まいのイメージをとらえていきたい。
◎土地神とは◎
土地をつかさどる神には、古代の社を由来とする后土、城隍、土地爺の三種類がある。これらには、人間の世界の官職と同様に序列がつけられている。そして、人間の生活を管理する支配神としての性格をもつ一方、それぞれ異なる範囲の土地の守り神という性質もある。后土は最高位の土地神で、その掌握範囲は九州大地、すなわち中国全土である。帝都の地壇で国家祀典がおこなわれ、専門の廟も設けられた。しかし一般庶民にとっては、墓地の守り神として知られる。