木簡を出した遺跡は長登銅山跡(山口県美東町長登)という。地名の長登(ながのぼり)については、幕末期の『防長風土注進案』(美祢宰判長登村)の項に
当村ハ金山所にて往古奈良の都大仏を鋳させらるヽ時、大仏鋳立の地金として当地の銅弐百余駄貢がしめらる。其恩賞として奈良登の地名を賜り……いつしか奈良を長と唱へ替たる訳詳ならず。
とあり、地名伝説としては広く知られていたが、一九八八年、東大寺大仏殿隣接地の発掘調査で地下五メートルの谷底から検出された青銅塊が化学分析によって長登産であることが判明し、この地の地名伝承が歴史的事実として晴れて公認されることとなった。
話を元に戻して、八木充氏によれば、豊前門司へ送られた銅は、豊前国府や大宰府で実用品に鋳造されたという。
時代はくだるが、南北朝から戦国時代にかけて関門地域を支配した大内氏(大内政弘)の壁書に赤間関から対岸三地点への渡り賃が見える。
定
条々
赤間関・小倉・門司・赤坂のわたりちんの事
一せきと小倉との間 三文
一せきともじとの間 壱文
一せきと赤坂との間 壱文
一よろいからびつ 十五文
一長からびつ 十五文
一馬一疋 十五文