一こし一ちゃう 十五文
一犬一匹 十文
以上八箇条
文明十九年(一四八七)四月、荒晴天にかかわらず渡し賃を一定とし、舟方と乗客とのトラブルを解消しようとした。赤間関の渡し場は、現在の亀山八幡宮の下の堂崎というところにあった。渡し舟の大きさはわからないが門司、赤坂、小倉の順に着船した。門司まで一里半、小倉まで三里。文政九年(一八二六)のジーボルトの『江戸参府紀行』(東洋文庫)によると、小倉の紫川河口から満潮のトロミを待って舟を出し、東流する引き潮に乗って赤間関へ向かっている。このような手押し帆船時代の航法は、中世も近世も大差なかろう。
◎下関と赤間◎
下関は「関」と「赤間」の、ふたつの代表地名をもつ。私見では土着のアカマのほうが先行して古い。セキが承和二年(八三五)の官符を初見とする「長門関」に出ることはいうまでもない。海峡への関の設置年代は文字資料をはるかに遡ると見てさしつかえないが、その時以来、土着の赤間を照らす海光は力を弱めて今来の関に顔役の座を明け渡す。その地は先の「大内家壁書」にあるように「せき」と名替えし、固有の地名は関をいただく「赤間ヶ関」となってその残生を送ることとなった。悲しむべし。この国では地名にも官尊民卑のナショナリズムが働くのである。
関の新設は当時の対朝鮮半島に対応すると考えられるから正式官名は別として実体的には木下尚子氏が「長門北浦の古代文化-地理的区分にみる歴史像」(『地域文化研究』8)に指摘するように、古墳時代に渕源するとみなしてよかろう。
このことと関連してつけ加えるなら、仲哀紀所載の「穴門豊浦宮」創設や新羅征討をめぐる神託記事は、後続する神功紀、応神紀からなる三部構成の第一編(ヤマト王権による関門地域の直轄)に位置づけられよう。
なお、赤間地名の由来については、国分直一氏の論説「下関市の起源-赤間関の地名の由来」(『下関市史・民俗編』)に詳しい。地名誌の方法論としても一読をおすすめしたい。
◎小瀬戸と穴門発祥地◎
ひとくちに関門海峡といっても、実際には三つの瀬戸からなる。
東口の早鞆瀬戸、西口の大瀬戸と小瀬戸の三つがそれである。今川貞世の『道ゆきぶり』(一三七一)以来、早鞆瀬戸と大瀬戸を結ぶ、いわば海潮の本流を東口から見て穴門なる呼称がうまれたとする説が圧倒的多数派を形成するが、私見では穴門は小瀬戸の景観的表現と考える。