瀬戸内の西の門……伊藤彰
◎長門[下関]と豊前[門司]◎
その昔、赤間(下関の古名)と門司は、陸続きであった。これがふたつに分かれたのは、神功皇后の朝鮮渡海のあとで、いまは門司と和布刈(めかり)神社は豊前国にあるが、その前はいずれも長門国にあった。
この話は寺島良安の『和漢三才図会』に見える。下関側の伝承であろう。荒唐無稽といえばそれまでのことだが、陸地がふたつに割れ豊前側が漂流したというミニマム大陸漂移譚の伝承者は、下関側の海民にちがいない。石炭の輸送を主体とする近代門司港が誕生するまで、関門海峡の通航は、下関を拠点としておこなわれた。冒頭の話はそのような下関側の優位を伝えるが、海峡の形成をめぐる巨人神話が下敷にあったとも考えられる。
長門国の国府が海峡の東口に近い豊浦津(とゆらのつ)(現=下関市長府)に置かれたのに対し、豊前国のそれは周防灘側の現、福岡県京都郡に置かれていた。行橋市の石塚山古墳(前期前方後円填)の存在から豊前国府の海上交通路が古墳時代を踏襲するであろうことは想像に難くない。それは国東から姫島を経て本州島南岸に達するか、あるいは『日本書紀』にオオタラシ彦(景行天皇)が周芳の娑麼(さば)(現=防府市佐波)から九州島東岸の長峡(ながお)(京都郡)に着いたという記載が見えるが、このコースを反対に東北上するかのどちらかであろう。
『日本書記』「仲哀紀」「神功紀」に登場する島々。右から六連島、馬島、遠景は藍島
一方、長照代氏によれば、奈良時代には社崎(みさき)(門司)―到津(いとうず)(小倉)―嶋門(若松)をへて大宰府に到る大宰府道があった。社崎が門司関の石碑のある和布刈神社の位置に当るか疑問のあるところだが、いずれにせよ官道の設定は長門側の臨門駅と関門海峡を横断して九州島北岸の現、北九州市門司区とを結ぶ海上のルートが整備されていたことを示す。
この海上ルートについては、長門側から豊前門司(とのつかさ?)あて銅塊の送付を伝える奈良時代(和銅〜天平初年)の付け札木簡が知られる。一九九六年から翌年に及ぶ三回の発掘調査の結果、七三点の各種木簡が検出され、うち九点は「豊前門司廿九斤枚一」等対岸の門司への銅付け札であった。