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私もいい歌だとは思うが理由はなかなか見つからない。人麻呂の時代の旅は不安きわまるものであった。まして海路である。

天平二年(七三〇)大宰の師(そち)であった大伴旅人は大納言に任じられて京に向う。その従者等は別に海路を取って帰京の途についたがその折の従者等の歌、

 

(3896)家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてし居れば 奥か知らずも

 

家にいてさえゆらゆらとたゆたうような、人間の生命。まして波の上に浮かんでいると、そのさびしさも不安も奥が知れないほどだ。という、このような海の旅なのである。人麻呂が、というよりも当時の旅人たちが頼みとするものは神以外にはない。そして、各々の土地には、それぞれその地を支配する神があった。その神々に祈りを奉げ、その土地の名を朗唱することによって、旅人たちはそこを無事に通過する。歌に現われた地名は、その地を支配する神の名に外ならなかった。短絡していうならば、地名は即ち神であったのである。

そして神々は、新しい言葉でいえば、一様に「色好み」でもあった。だから旅人たちは、神の名即ち土地の名を声あげて呼び、かつ(251)番の歌のように女人のことを歌う。自分に親しい女人をそこに登場させることによって、神々の心を和し得ると考えたのである。

(252)番の場合は通解に従えば、異国を旅する者、或はこの人麻呂のように異国におもむこうとする者等が、さびしさとか不安とかを一層かきたてられるものとして、京の官人である吾を、このあたりに住む海人と見誤るのではなかろうか、と嘆く歌であるとするのだが、一体誰が見誤るというのであろうか。京大路をゆくのであれば、そういうことも考えられるのだが、場所は大和の領域をも外れようとする「藤江の浦」である。住んでいるのは海人ばかりで、見誤られた所で一向に痛も痒も感じないはずである。前の、(251)番の歌でいったことだが、土地ごとに、その地を支配する神がいた。藤江の浦には藤江を支配する神があった。危険な海として定評のあった藤江の浦に住み、そこを通過してゆく旅人にとっては危険この上もない場所を生活の場としている海人たち。彼等は何故安心なのか、というなら、それはその地を支配する神の加護があるからに外ならないということである。人麻呂が、すずきを釣る海人と見誤られないだろうかと思い、ひそかにその事を念じている相手は神なのである。

「海人とか見らむ」という形で歌になっているのは巻第七、人麻呂歌集にある歌、

 

(1187)網引(あびき)する 海人とか見らむ 飽(あく)の浦の 清き荒磯(ありそ)を 見に来し我を

 

である。飽の浦は現在の岡山市飽浦。児島半島の東北端に位置し、吉井川の河口と向いあっている。当時の河口は今よりずっと後の方にあったはずだが、しかし危険な海であったであろうことは推測出来る。現在の岡山市の大方が海であり、潮の干満につれて、大量の海水がそこを通過したのである。

 

 

 

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